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健康と生命倫理ー欲望論の視点からー
Health and Bioethics: from a philosophical viewpoint of desire |
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森下直貴(浜松医科大学) キーワード:健康,欲望,生命倫理,病気,生命,死,幸福 はじめに−健康再論 わたしは本誌で以前にも「健康」について論じたことがある1)。そのときは着想の域を越えるものではなかったが、あれから数年がたち,ようやく最近になって,自分なりにあるていど明瞭な見地に達することができた。そして昨年,欲望論の視点からその見方を本にまとめた(『健康への欲望と<安らぎ>−ウェルビカミングの哲学』青木書店,2003。以下,拙著と表記)。ところが,こちらの意気込みとは裏腹に,その反響はきわめて寂しく,わずかばかりの書評や紹介が散見されたにとどまる。これは半ば予想された事態ではある。テキストの煩瑣な解釈や,奇をてらうかのような術語,生硬なだけの表現にあふれかえった書物を,今日だれが丁寧に読もうとするだろうか。そこで今回,テキスト解釈の部分を切り離し,わたしの考える健康観の骨格をできるだけ簡潔に語り直すことにしたい。なお,同じ時期に欧米の健康論の水準を示している翻訳書を出版した2)。これはわたしの見方とは対照的で相補的な関係にある。これも合わせて目を通してもらえれば,健康論のもつ幅と奥行きを理解してもらえるかと思う。 1.健康と欲望 健康に対する関心は人さまざまである。例えば,専門的な立場の違いによっても,自分の置かれた状況の違いによっても,おのずから異なる関心が生じるだろう。そして,関心の異なりは健康の見方に微妙な差異をもたらすはずである。わたしの場合の関心はおおよそ次のようになる。今日,もともとは当然といえる「健康への欲望」が際限なく膨らみ続け,そのまま切れ目なしに「安楽への欲望」につながっている。しかし,健康から安楽へと連続する欲望の間に,何らかの適・不適の線を個々人が自ら引かないかぎり,生命をめぐる困惑と葛藤と混乱や,生命に対する一面的な偏りの蔓延は避けられないだろう。そして何らかの線引きを遂行するためには,問題の根源にある「健康への欲望」に着目し,その本性と正体をとらえることから始めなければならない。 いま大づかみに述べたことを敷衍してみよう。ここで「健康への欲望」とは,「苦痛から逃れたい」「病気になりたくない」「健康でいたい」「若々しくありたい」「死にたくない」といった願望を指している。これらは J. S.ミル流にいえば「自己配慮的な」欲望にあたる(『自由論』第1章)。つまり,他者に危害を与えないかぎり,その追求は個人の自由の領域に属しており,その充足感としての幸福は道徳的価値ではなく,美的価値にかかわる。ところが,このきわめて個人的な欲望が,ライフサイエンスとバイオテクノロジーによって刺激されることで,欲望の全体を巻き込みながら,倫理と政治の表舞台に躍り出ているのが今日の特徴なのである。 「健康への欲望」は「より健康へ」と向かう際限のない膨張運動である。技術や市場の振りまく夢によって前方からは引っ張られ,後方からは現代社会の内部に組み込まれた不安によって突き動かされつつ,欲望は「健康」へと向かう。このとき,目標としての「健康」が明瞭であれば運動はいずれ停止するだろう。しかしそれが不明瞭であるなら,結果として「より健康へ」の際限のない膨張運動が続くことになろう。実際,身体への欲望においては無痛から健康,美容,若さ,身体的・精神能力の改善,不老不死にまで連続していて,それらの間のどこかに線を引くことは困難になっている3)。同様に,生活の質の面での手軽さ・便利さ・清潔さといった快適さの追求は,生殖・産育や老いと臨終のような人生の重要な局面での安楽さの願いに連続している(拙著序章2~4)。 このように「健康への欲望」の本性は「果てしのなさ」にある。そしてその正体は目標としての「健康」の曖昧さである。この曖昧さの根源の一つは社会の近代化に求められる。詳しくは拙著に譲ることにし(拙著序章5,6),粗筋だけ述べればこうなる。個々人の身体感覚に密着していた「養生」の世界は,明治以降,医学と国家のまなざしにからめ取られて「健康」の世界へと変容する。その過程で身体が正常・異常の枠組みに回収され,管理の対象とされることで,「健康であること」は個々人の身体感覚から切り離される。この点ではWHOが提唱する主体的な健康観の影響も大きく,健康が自己実現や幸福に結びつけられることで,ますます漠然としたものになる。 「健康」の曖昧さの根源は個々人の身体感覚からの乖離にある。この見立てからすれば,自分の健康感覚に耳を傾け,これに不断に語らせることが,「健康への欲望」から一定の距離をとり,欲望の連続体の間に線を引くための足場になると考えられる。もちろん,数値化や,尺度化,法的言語化,価格づけなどの一定の操作は,社会生活を送り,福祉国家の内部にいるかぎりは部分的・限定的に必要であり,避けることはできない。しかしそうした操作にあっても,健康を見つめるまなざしの原点はつねに個々人の内なる健康感覚のはずである(例えば,臨床や研究で下敷きにする統計的な正常値の出発点は,あくまで個々人の健康感覚にもとづく自己申告であるほかない)。いうなれば,欲望の海の航路を示す羅針盤,もしくは欲望世界に引かれた座標軸の原点,それが自分の健康感覚である(拙著序章8)。 2.欲望と生命倫理 先に「生命をめぐる困惑と葛藤と混乱や,生命に対する一面的な偏りの蔓延」と書いたとき,念頭にあったのは「生命倫理」である。ここで生命倫理を次の三つの意味に分け,欲望(とくに「健康への欲望」)とのつながりを確認しておこう。第1は,先端技術と市場と国家との連繋によって新たにもたらされた「問題」という意味である。第2は,そのような問題を解決するための「アプローチ」である。このうちの一つ,「患者(や被験者)の権利」を原理に掲げる「バイオエシックス」は先駆的に問題に取り組んだもので,今なお有力なアプローチといえる。第3は,多様なアプローチが最終的にめざすべき「理念」としての生命次元の「他者との共存の枠組み」である。これをわたしは勝手に「ライフエシックス」と名づけている4)。 さて,問題としての生命倫理と「健康への欲望」との結びつきは明白である。ライフサイエンスとバイオテクノロジー(とくに先端医療技術)が,市場やさらに国家と結びついて,いまや巨大なバイオ情報産業を形成している。この環境のなかで個々人の欲望は掻き立てられ,創出され,解釈され,方向づけられ,規制され,管理されている。しかし,例えば「子どもが欲しい」という当然ともいえる欲望が基盤になければ,そもそも生殖医療は成り立たない。そして「子どもが欲しい」から「優れた子どもが欲しい」まで連続する欲望は,親側の「健康への欲望」を投影したものであろう。このように,個々人の欲望やこの充足にともなう幸福こそは問題の発生源なのである5)。 欲望や幸福が基盤にある点は臨床の場でも同様である。ここでの真の困難は,患者が主人公であることをたんに確認し合うことではなく,最新の医療機器に囲まれた環境のなかで,どのようにすれば主人公である患者の「人間らしい生と死」を確保できるのかにある。仮に患者を中心とした関係者の間で医療の「最終目標」が共有されていれば,困難さもかなり減るにちがいない。そのためには患者自身の意向がいちばん重要である。しかし,患者特有の気持ちの揺れや,家族への配慮,家族の側の心情,医療者側の標準的な治療方針などが絡みあって,患者の意向がはっきりしないことが多い。ましてや,そもそも不明な場合もある。いずれにせよ,患者の意向の根底に横たわっているのは「健康への欲望」であり,さらには「生の欲望」である。これに目が向けられないかぎり,医療の最終目標は定まらないだろう。 ところが,問題の発生源である「健康への欲望」を問い直すようなアプローチは,臨床の場ではほとんど見られない。「権利」や「共感」のアプローチはどちらも,それらの前提にある「健康への欲望」にまで踏みこんではいない。公共の場でも同様である。法律やガイドラインを議論する審議会では,「人類の福祉」「生命の尊重」「人間の尊厳」などと並んで,「個人の尊重」はしばしば依拠される有力な価値理念の一つとされる。しかし,個人の尊重(あるいは個人の自由)を問い返し,その前提にある「健康への欲望」にまで目が向けられることはほとんどない。事情は「福祉」や「人間の尊厳」や「生命」でも同様であるから,価値理念の併存・対立という表面的な結論にとどまる。 ここで反論が出されるにちがいない。たしかに欲望から生命倫理という問題が発生するかもしれないし,それを問い直さないかぎり近視眼的な処方箋しか出てこないかもしれない。しかしだからといって,個々人の欲望や幸福の内部に立ち入ることは,近代立憲主義の大原則を踏みにじり,個人の自由に介入することである。また,生命倫理は個人の欲望だけで済むような事柄ではなく,社会システム全体の調整の問題である。さらに,公共的な調整は倫理というより,本質的には力と妥協で決まる。とすれば,欲望を問い直すべきだとする主張は単純素朴にすぎるのではないか。 以上の反論が一定の説得力をもつことを認めたうえで,しかしなお次のように答えたい。個人に関していえば,自らの欲望と幸福を問い直して向き合うことが,すべての出発点になるはずである。そればかりではなく,わたしの考えでは,自分の欲望と幸福を自ら問うことを通じてしか,「理念」としての生命倫理に接近することはできない。個々人が合意ではなく相互に刺激し合うことめざして「健康への欲望」を論じ合い,このように論じ合う経験を積み重ねることを通じて,法律や慣習や宗教の根源にある「他者との共存の枠組み」をとらえかえす場に接近できるだろう。この深層の場は,生命倫理をめぐる政治的な公共性という表層の場を背後から支え,不断に活性化する6)。そして「健康への欲望」こそは,(けっして表層化・制度化されることはなく,またそうされてもならない)深層の公共性への扉を開く鍵なのである。 3.健康の感覚と概念 ふたたび自分の健康感覚にもどろう。この体験は一人ひとり異なる。たしかに,自分の健康に対してはだれしも強い関心をもち,その関心ぶりは天気への関心と結びついて日常の挨拶や会話に表れている。このことは健康に関して共通の了解があることを示唆する。しかし例えば,多くの人にとってはさわやかな天気でも,今日の自分は頭が重くて寒気がするということがある。さらに細かくいえば,同一の個人でも,朝夕,日ごと,季節ごと,あるいは年齢とともに健康感覚は違ってくるだろう。「健康」についての語りは,そのように語る個々人の体験の質に徹底的に左右される。この体験のうえにさまざまな立場や状況の違い,時代の技術水準の差,風土・文化固有の力点が重なるのである。それゆえ,健康について客観的実在があるとか,普遍的な概念があるとする見方をまず棄てなければならない。 とはいえ,強調点を変えてみるなら,個々人の体験の差異が差異として成り立つ前提には,やはり健康と天気との深い相関があり,ある程度の大まかな共通了解があることを否定できない。あるいは,重なり合う言葉の用法があるといってもいい。日常会話はそのような共通性なしには成り立たない。「健康」について共有されるそうした大まかな了解は、これまでさまざまに表現されてきた。 例えば,日常の言い回しには「達者」「元気」「丈夫」「すこやか」「つつがなさ」などがある。辞書記載のあたりさわりのない表現では「病気ではない」「無病息災」「調子の良さ」「充実した感じ」などがある。西洋医学の古典的な見方では「正常さ・自然さ」「バランス・均衡状態」などである。行動面に着目すれば「日常生活が送れること」「目標と能力との釣り合い」とか,「自己実現の資源」「幸福の条件」などになる。そのほか拾い出そうと思えば,類似の表現例はいくらでも挙げられるだろう。 ところで,それらの表現群を少し注意して見渡せば,そこから一定の共通要素を抽き出せそうである。それを絞り込むならば,「ある種の全体さ・完全さの実現」とこれにともなう「ある種の快感」とになる(この点はインド=ヨーロッパ語の語源からも裏づけられるが,詳しくは拙著序章7)。両要素は概念化を導くさいの不動の北極星(ポラリス)にはなる。ただし,実際にそれを言葉で分析し,定義づけるのはなかなか難しい。その困難さは日常のどの基礎語(例えば「赤い」)にも当てはまるし,価値関連の感覚・観念・用法(例えば「美味しい」)ではとくにそうである。健康の曖昧さは前述した歴史的な影響ばかりではなく,このように本質的なものといえる。逆説的にいえば,健康は熟知の事柄だからこそ,曖昧でとらえがたいのである。 根源にある自分の健康感覚に耳を傾け,それに語らせることを通じて言葉に置き換えていく試み(概念化)が,欲望の視点から要請されている。だが,本質的な曖昧さを考慮するとき,健康の概念化はそもそも可能なのだろうか。おそらくそのような試みは,個々人が自分の健康感覚を確認しながら企てる孤立した冒険以外ではなかろう。ただし,希望的な観測をいえば,そのような企てどうしが響き合うことはありうるし,多様な響き合い・緊張・交流を通じて,さらに自分の健康感覚への認識が研ぎ澄まされ,深まることが期待できるかもしれない。そしてそれが最終的に健康文化の豊かさを創り出すとしたら,望外の喜びといえよう。 4.健康の二つの次元 少々前置きが長くなったが,ここまで述べたことは健康論の前提である。これからわたしの健康観の骨格を提示しよう。上述のような大まかな表現群でも,あるいはここから抽出された共通要素でも,そこには微妙ではあるが,顕在的・積極的次元と潜在的・消極的次元という二つの次元を区別できるように思う。前者を<活力の次元>(例えばスポーツや音楽で体験される歓喜と平静さの繰り返し),後者を(病気ないしはこの近似状態からの)<回復の次元>と名づける。両次元を区別し,前者の基盤に後者をおくのが,わたしの健康観の最初にして根本的な特徴である。 通常の表現群では両次元の微妙な差異はほとんど消えており,<回復の次元>が<活力の次元>に吸収されている。あるいは,重ね合わさったものが最初から一つのものと見なされている。たしかに両次元の違いは微妙であるから,これまで認識されてこなかったとしてもやむを得ないだろう。WHOの健康観だけではなく,従来の健康観のほとんどすべてが両者を区別していないのである。ただし,そのなかにあって功利主義の祖ベンサムだけは違っていた。ここは事柄の本質にかかわる重要な点なので,あえて言及しておきたい。 ベンサムは「健康」には二種あるという。一つは積極的なもので,「完全な健康と活力の状態,とくに適度の肉体的な運動にともなう内的な快い感情,または(いわゆる)精力の躍動」である。もう一つは消極的なもので,「病気の徴候であるあらゆる種類の苦がないことである。ある人が自分の肉体のどこかに主要な原因があると思われる不快な感覚を何も意識しないのであれば,その人は健康な状態にあるといえる」。二つの定義を並べたうえでこう比較する。「ある程度の健康の状態においては,そのような消極的な説明は実情に適していないと考えられるかもしれない。その状態ではしばしば,適切にも積極的な快と呼んでいいような,快い感情や精力の奔流が身体中に満ちている。しかし,そのような感情を経験しなくても,苦の感情を経験しなければその人は十分に健康状態にあるということができよう」(拙著第2章5)。 このように,ベンサムは二つの次元を明確に区別し,しかも消極的な<回復の次元>を健康にとって本質なものと見なしている。わたしの知るかぎり,そう言い切ったのはベンサムが初めてである。ただし,そこに含まれる重要な意味合いについてはそれ以上問い深めることはなかった。 病気はいうまでもなく避けがたい。そしてたいていは病気から回復する。回復した直後,わたしたちは穏やかな快感として<回復の次元>を感じている。このとき区別する視点をもちさえすれば,<活力の次元>との違いに気づくはずである。健康における<回復の次元>はふだん,歓喜(興奮)と平静さ(鎮静)とを繰り返す<活力の次元>の陰に隠れている。しかし,いったん身体のどこかに違和感があれば,そればかり気になって日常活動が滑らかに流れなくなる。日常の流れの滞りという事態のうちに,<回復の次元>が取り戻されるべき状態として出現する。<活力の次元>とこれをもたらす日常の活動とは,<回復の次元>を潜在的な基盤にしてはじめて成り立っている7)。 <回復の次元>をつねに原点の位置におかないかぎり,日常のなかで欲望が無際限に掻き立てられ膨らんでいくままに,<活力の次元>の興奮状態も無際限に掻き立てられ,膨らんでいくだろう。<活力の次元>の健康しか見ないことによって「健康への欲望」が生じるのである。一見すると両次元の区別はごく些細な違いに思えるかもしれない。しかしその射程距離は予想をはるかに越え,生命観ばかりでなく,幸福観やさらに倫理学にも届くはずである。 5.健康と病気 <回復の次元>を表面的に受けとるなら,病気と健康が対立し合うかのように見えるかもしれない。通常の健康観では,完全・全体性の実現とこれにともなう快感という直観をそのままうけとり,両者を対立的にとらえてしまう傾向が著しい。しかしそうなると,健康と病気とはまったく別個の状態か,直線的な過程の両端か,たんなる程度の差に還元されてしまうだろう。それに対して,わたしは健康を病気とは別個の「状態」などとは考えない。そうではなく,ある種の循環過程に組み込まれた極点の一つを中心に広がる一定の状態ととらえる。他方,病気もまたその同じ循環過程のうちの,健康とは正反対の極点を中心に広がる一定の状態とみなす。つまり,健康と病気とは同一の循環過程の内部で循環的につながると考える。この点がわたしの健康観の二番目の特徴である。 回復された状態は循環過程の内部状態の一つである。しかしこの状態は直ぐさま崩壊状態へと移行する。健康も病気も循環運動の一契機であり,正反対の方向に向かう運動(ベクトル)の起点である。このように反対方向に向かう二つのベクトルが一つの循環過程を形成する自己運動に対して,わたしは著書では「自己回復の循環生成」という術語をあてた。ちなみに,そのモデルは V.v. ヴァイツゼッカーの「ゲシュタルトクライス」である(拙著第4章2)。ここでは<自己回復の循環運動>と呼び換えておこう。 健康の核心は<活力の次元>の興奮状態でも,その興奮状態と交替する鎮静状態でもない。回復から崩壊へ,そして崩壊から回復への循環のなかで取り戻された回復状態であり,これに穏やかな快感がともなう。崩壊状態からの回復をたえず目がける循環運動の内部に,崩壊状態としての病気とこれにともなう病いの感覚,回復状態とこれにともなう穏やかな快感がある。病気とその回復とを概念的に切り離すことはできない。<自己回復の循環運動>が成り立っているかぎり,そこに健康があり,病気がある。 <自己回復の循環運動>のなかで回復された状態にともなう穏やかな快感が<安らぎ>である。この<安らぎ>のうえに,<活力次元の循環運動>にともなう興奮感覚がおおい重なるとき,通常の大まかな健康感覚が生じる。<安らぎ>は消極的な快感である。そして意識に立ち現れたとたん,直ぐさま消失し潜在化する。この潜在化は二方向で起こる。一方は回復状態が崩壊するなかで価値的に潜在している。他方は<活力の次元>の鎮静状態の奥底に潜在している。それゆえ,病気の状態や<活力の次元>の方が<回復の次元>の健康よりも,わたしたちの意識にとっては積極的に感じられる。<回復の次元>は本質的に目立たず,いつでも曖昧なものにとどまる。 なお,やや複雑な話になるが,<自己回復の循環運動>と<活力次元の循環運動>と欲望との間の関係について,大づかみな説明をしておこう8)。<自己回復の循環運動>を構成する回復へのベクトルの正体は<回復への欲動>である。これが「欲動の回路」の基本である。これに「情動の回路」が結びついて消極的な快感としての<安らぎ>が生じる。<活力次元の循環運動>は,<回復への欲動>から派生した欲動群(親愛,エロス,自己拡張)によって生じる(拙著第3章4)。これに「情動の回路」が結びついて積極的な(興奮と鎮静の)快感がともなう。これらの重層化する循環運動に「知覚の回路」と「言語の回路」が結びつくとき,欲動とは区別された「欲望」の充足運動が生じる。欲望は知性と社会関係に媒介される。逆に,欲望の飽くなき充足運動によって<活力次元の循環運動>がいっそう活性化され,さらにその影響は<自己回復の循環運動>にも及ぶだろう。 6.健康と生命 <自己回復の循環運動>は固有の価値的な極性と傾きをもっている。回復された状態からたえず滑り落ちながら,不断に元の状態を取りもどそうとする循環である。潜在的な回復状態が価値的に先行し,循環運動の全体を支えている。しかし運動の起点は「害」による傷であり(この点で環境内という観点を無視できない),顕在しているのは回復状態の崩壊への運動の方である。崩壊が極点にいたったところで,今度は回復をめざす逆の運動が内発的に起こる。これを起こすのが前述の<回復への欲動>である。これは循環運動の内部で不断に働いており,害され傷つき解体される危機に抵抗し,回復されるべき目標へと向かう。 G.カンギレムは『正常と病理』のなかで,生命の本質を「規準設定力」にもとづく「価値極性」と見なしたが(拙著第4章7),この洞察にわたしは基本的に同意する。<自己回復の循環運動>は生命の営みそのものである。健康を生命の営みとしてとらえる観点が,わたしの健康観の三番目の特徴である。これに関連して以下の論点を指摘しておきたい。 第1に,生命には伝統的に「目的」という観念が結びつけられてきた。潜在的な回復状態が循環運動の価値的な目標である点を考慮すれば,たしかに生命と目的との親和性も十分に理解できる。ただし,問題は目的ないし目標のとらえ方である。<活力次元の循環運動>(さらに螺旋的に発展する循環運動)に目標を結びつけるなら,それはわたしの考えとは相反する。じつはカンギレム自身も,生命の本質を「維持」ではなく「拡張」「超越」と考えている(拙著第4章9)。しかし,<自己回復の循環運動>はそもそも「拡張」ではないし,たんなる静的状態と見られたかぎりの「維持」でもない(この点は最後にふたたび言及する)。 第2に,自己循環が回転しているかぎり,そこに生命の営みがあり,回復状態としての健康とこれにともなう感覚がある。ただし,その回転はそれぞれの生命個体に特有の律動(リズム)をもっている。生命の営みは律動である。一人ひとりの健康とこの感覚の違いは,その回転の律動の違い(速い/遅い,大きい/小さい,一定/変動など)に起因する。同一の個人でも成長につれて,あるいは日ごと,季節ごと,生命の律動が変容するにちがいない。この意味で健康は徹底して個別的な出来事であるといえよう。 第3に,生命の<自己回復の循環運動>の出来事として見るかぎり,健康はすべての生物で共通している。人類であろうと,ほかの動物や植物や微生物であろうと,健康という状態は同様である。ただし,「情動の回路」をもつ生物では,健康の状態に<安らぎ>の感覚がともなう。さらに(中間的段階を飛ばして)「言語の回路」をもち社会生活を営む人類にいたっては,<安らぎ>のうえに複雑な喜び(と苦しみ)の感情が重なる。生物にはたしかにそのような違いはある。しかし,<回復の次元>の健康の共通性に着目することで,同一の基盤のうえで展開された多次元の特殊化としてあらゆる生物をとらえる観点がえられる。 第4に,<自己回復の循環運動>という見方は,生命と機械という固定した図式をも揺るがすだろう。その種の循環が成り立つかぎり「機械」もまた生命でありうるからである。この可能性は,サイボーグやアンドロイドなどの新たな「他者」を視野に入れるとき,また,構成的生物学やナノテクノロジーによって創り出される非地球進化型の生命体を考慮するとき,理念としての生命倫理にとって決定的に重要であると思われる。この意味で健康の<回復の次元>が切り開いた<自己回復の循環運動>という視座は,もっとも広い生命観の枠組みを提供するものと考えられる。 7.健康と死 わたしの健康観の特徴は以上の3点にとどまらない。最後にもう一点,ぜひとも強調しておきたいのは「死」とのつながりである。従来の健康観の最大の欠陥の一つであるとわたしが考えるのは,じつは「死」という現象の欠落である。この欠落は健康から害・傷や病気とのつながりを欠落させた見方の延長線上にある。 繰り返しになるが,病気は<自己回復の循環運動>の内部の危機的な極点として,この運動を本質的に構成している。この運動はふつう<回復への欲動>(自己回復力=自然治癒力)が働いて,もう一つの安定した極点へと循環する。ところが,<回復への欲動>の衰弱とともに回転が滞るようになり,最終的に停止することがある。循環の回転の停止が個体の死として現象する。しかし,生物個体の死は新たな循環運動をもたらす。それが<死と再生の生命循環>にほかならない。健康を組み込んだ生物個体の循環運動は,個体と個体とをつなぐ生命の大きな循環の一部なのである。 進化史的にいえば,有性生殖という生命の戦略が決定的に重要な意味をもっている。個々の生命体は化学反応が一定の傾きをもって進行するまま,たえず増殖を繰り返す。そのような繰り返しを通して試行錯誤的に,<自己回復の循環運動>から有性生殖という戦略が発現する。これによって異性(エロス),世代と個体(親子/親愛),生と死が創出される。これらの現象は同一の営みの異なる三つの側面である。したがって,<自己回復の循環運動>から派生するのは<活力次元の循環運動>だけではない。これと同時に,<死と再生の生命循環>も等根源的に派生するのである。このように出現した三重の循環運動(基盤としての<自己回復の循環運動>を中軸にする三重の循環運動)を,わたしは「生成」を強調して<ウェルビカミング>と名づけてみた。 個体の死を織り込み,一契機としながら,生命そのものは存続する。「生命は死なない。死ぬのは個々の生物である」とはV.v.ヴァイツゼッカーの言葉である。健康に自己回復の観点とともに,死と再生の観点を織り込むならば,病気やこの治療の見方が大きく変わることだろう(拙著第4章3)。 8.健康と幸福 つまるところ,わたしの考える「健康」とは<自己回復の循環運動>の内部で不断に回復された状態である。そしてこの状態にともなう穏やかな快さの感覚が<安らぎ>である。これは<回復の次元>の健康感覚であり,このうえに<活力の次元>の積極的な健康感覚,すなわち,歓喜と平静さの快感の繰り返しが重なる。日常の意識では,<活力の次元>での平静さの快感と,<回復の次元>での<安らぎ>とは重なり合い,ほとんど溶け合う。健康の二つの次元の混同はそのような融合に淵源する。 それでは,以上の健康観は「幸福」とどのように関係するのだろうか。幸福を「主観的な感情」の面からみた場合,健康に二つの次元が区別され,それに応じて感覚も二つに区別されたように,幸福についても同様の区別が導入できそうである。古来,エピクロスをはじめ,幸福論者たちの考えた幸福とは「慎ましい幸福」であった,と指摘したのは J. S.ミルである。かれ自身もまた,興奮と鎮静が交替する「慎ましい幸福」を功利主義の基礎においた(『功利主義論』第2章)。この「慎ましい幸福」は一見すると消極的な印象を与えるが,わたしの分類では<活力の次元>の積極的な幸福である。これに対して<安らぎ>の方は正真正銘,消極的な幸福である。わたしはこの<安らぎ>を幸福の核心と考え,これを欲望とこの充足にともなう幸福から距離をとり,向き合うための座標軸の原点とみなしている。しかしこれだけでは,知的で社会的な存在である人間の幸福にとって,何か大事なものが欠けているのではないか。 <安らぎ>は,生命の危機的な状態にともなう「苦痛」とは循環的な対極の位置にある。ところが人間の場合,身体の「苦痛」そのものがあるというより,たいていは精神的な「苦しみ」のなかに包み込まれ,これと相互に浸透し合っている。「苦しみ」の主たる源泉は,知性の働きによって掻き立てられた社会的関係をめぐる「欲望」である。とすれば,知性の働きを止めさえすれば,欲望が消え「苦しみ」から解放されることになろう。初期仏教は「苦しみ」が消えた境地を,欲望の炎の消失(涅槃)という否定的なイメージで表現した。しかし,それはたんなる消失(無)ではなく,むしろ肯定的に一種の消極的な快感として感じられないだろうか。この点で示唆的なのは,「愛する人の不在・無力・死別」を「精神的苦しみの根源」としたミルの考えである(同上)。このミルの例をもちだすまでもなく,「苦しみ」と「喜び」の間で振幅をくりかえす精神的な興奮・高揚が静まったとき,その最底辺で感じられる快感とは,他者との(最小限の)心の通い合いの感触にともなう穏やかな快さといえよう。これを<和らぎ>と表現したい。 <安らぎ>と<和らぎ>。これらからなる穏やかな快さの全体を《安らぎ》と名づけよう。これこそわたしの考える幸福の核心,別言すれば<最小限幸福>であり,自分の欲望と幸福の全体に向き合うことを可能にする原点である9)。この原点に立って見渡すならば,従来の幸福観はノルデンフェルトのそれも含め(拙著終章2),<活力の次元>の積極的な幸福のみを想定しており,幸福全体を重層的にとらえていない。 最後に,健康=幸福観と倫理とのつながりにも付言しておこう10)。例えば,カレンのような植物状態の患者のケースでは,生命の放棄をも許容する「自律」の原理と,どこまでも延命に固執する「生命」の原理とがジレンマの関係に立つ。このジレンマを解消するためには,両原理の根拠を問い直してみなければならない。一方の「自律」の前提には生命の「拡張」という見方があり,これを<活力の次元>の健康が支えている。そしてその根源には<回復の次元>の健康が潜んでいる。他方,「生命」の原理の前提にはたんなる「維持」という見方があるが,それを力動的に<自己回復の循環運動>ととらえ直してみよう。このように考えるならば,「自律」の原理と「生命」の原理はともに《安らぎ=最小限幸福》に収斂するだろう。わたしの考えでは,この《安らぎ=最小限幸福》こそ,医療のなかで関係者が共有すべき「最終目標」の核心であり,一般的にいえば、<倫理の原点>への起点となる<自分の原点>にほかならない(拙著終章3)。 注 1) 森下直貴,「健康」は「ウェルネス」か?,生命倫理:通巻9(1998),19-28。 2) L.ノルデンフェルト著,石渡隆司・森下直貴監訳『健康の本質』,時空出版,2003。 3) 一例だけ最近の文献を挙げる。石井正之著『肉体不平等論』平凡社,2003。 4) 森下直貴,生命倫理,『バイオエシックス・ハンドブック』(木村利人ほか編,法研,2003)所収,45-54。 5) 森下直貴,「産育への欲望」といかに向き合うか,中部哲学会年報:35(2003),113-127。 6) 中山茂樹,共に生きるということ−生命倫理政策と立憲主義,山崎喜代子編『生命の倫理−その規範を動かすもの』(九州大学出版会,2004)所収,139-164。これは近代立憲主義とリベラリズムの枠組みを問い直す好論文である。ただし,「自律」と「生命」の根拠を問うまでには到っていない。 7) 服部健司,多様な健康像の定式化の果てに,医学哲学 医学倫理:22(2004),掲載予定。氏の「原初的健康」は<回復の次元>の健康とほぼ同じものを指している。ただし,わたしの健康観との違いは,概念化に向かうことを拒絶し,あくまで「気分」に踏みとどまる点にある。これは哲学観の違いであろう。 8) 十川幸司著『精神分析』(岩波書店,2003)中のスターン=十川の理論(51頁)を参考にした。ただし,わたしの解釈では「欲動の回路」が根幹におかれる。 9) 2点だけ指摘したい。1点目。少なくともわたしの意図では,《安らぎ》は「東洋的」幸福観を意味していない。二つの幸福の区別にしても西洋/東洋の図式とは無関係である。たしかに《安らぎ》は仏教の「涅槃」に近似している。しかし,涅槃には苦痛や病気との内的循環の観点が欠落しており,生命の営みという基本理解がない。2点目。立岩真也氏の「他者があることの快」(『私的所有論』勁草書房,1997)について,他者がいることが快であるという直観の基礎を探るなら,<和らぎ>に到るであろう。しかし、<和らぎ>はさらに<安らぎ>と結びつかなければならないと思う。 10) 欲望と幸福の原点である《安らぎ》は自分の美意識ではあっても,倫理には直接つながらない。倫理への展開には別次元の考察(害と責任をめぐる)が必要である。 |
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