図書新聞/書評

マーガレット・ロック『脳死と臓器移植の医療人類学』(坂川雅子訳,みすず書房,2004)

小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書,2004)

ポスト「脳死」時代の臓器移植

~<安らかな死>と<安らかな生>とをいかにつなぐか~

 脳死・臓器移植をめぐって最近,きわめて重要な二冊の本が登場した。一つはマーガレット・ロック『脳死と臓器移植の医療人類学』(坂川雅子訳,みすず書房,2004),もう一つは小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書,2004)である。ロックの本は北米と日本における脳死・臓器移植の受けとめ方を比較し,その背後に横たわる文化の複雑さを描いて見事に成功している。異質な視線の交差を通じて反省を促すという点では入手しうる最良の本である。他方,小松の本はおそらく当該テーマに関して現時点で望みうる最高のものであろう。「脳死=人の死」という物語は,本書によってほとんど完全に解体されたか,少なくとも根本的に反証されたと言える。両著を併読するならば,このテーマについて私たちの視界がひらけ,これまであやふやだった知識の大半が明瞭になり,そのまま放置してきた疑念のほとんどが氷解するにちがいない。しかし,両著をあえて交差させるとき,いわばポスト「脳死」時代の新たな課題もまた浮かび上がる。ここでは著書の精確な紹介をいくぶん断念してでも,その種の課題を明確にする方向で考えてみたい。


 人工呼吸器につながれた「脳死」患者は,機械と人間のハイブリッド(機械化人間=サイボーグ)であり,しかも「生きている死体」とも形容されるように,<生と死の境界上のあいまいな状態>にある。一般に現代の医療技術(広くはハイテクノロジー)は,いわゆる健常人・正常人に対して次のような4種類の「他者」を創りだしたと言える。すなわち,矛盾の塊としての患者(強さと弱さを兼ね備えた病人),ものを言えない(コミュニケートできない)患者(例えば植物状態の人),一方的に操作されるだけの生命体(胚や胎児,細胞・組織・臓器,動植物など),それに,生物の自然進化をはみ出した存在(ハイブリッド人間,キメラ人間,アンドロイド=人型ロボットなど)である。この視点から位置づけるならば,「脳死」患者とは,ものを言えないハイブリッドという新しい「他者」である。

 この生死の境界上にあるハイブリッドに対して,現代医療の主流は人工呼吸器を取り外したり,臓器を移植に利用したりするために,死んだものとみなそうとする。ここで要請されたのが「脳死=人の死」物語である。北米(アメリカとカナダ)では,この「新しい死」がさしたる論争もなく受け容れられ,臓器の提供も「生命の贈り物」として定着した。そして議論されるのはもっぱら臓器不足への対応である。ところが,日本では「脳死」をめぐって15年近く激しい論争が続いたが,この事態は世界中のどこにも,また過去の日本でも類例を見ないものである。両地域でのこのような違いは一体どこに由来するのか。

 その理由を探ってロックは「文化」に注目する。そのさい「伝統」「固有性」「特殊性」に寄りかかる安易なやり方はとらない。あくまで複雑なものとしてとらえ,北米と日本を交差させながら,それぞれの特徴をあぶり出していく。ロックによれば,文化の中心には「死の受けとめ方」がある。北米では,瞬間としての,しかも個人の意識(あるいは知的・精神的な能力)の喪失に力点がおかれる。これに対して日本では「家族」が強調され,生物はもちろん,個人を越えて,親しい人々による受けとめ方,つまり「社会的な死」にほとんどすべての力点がおかれる。そうした力点の相違から,遺体・死体の扱い方や,それをめぐる所有観念の有無,「贈与」の意味合いに重要な違いが生じる。とすれば,<生死の境界上のあいまいな状態>が現代医療にの中で強引に死の側に引き寄せられ,移植医によって臓器を摘出されるという事態に対して,それぞれどういう反応が生じるのか。

 ここで反応を左右するのが,医師に対する一般の人々の信頼の有無である。北米やヨーロッパではその信頼が基本的に保たれており,専門家が決めたことはそのまま社会に受け容れられる(ただし,最近では信頼感も多少薄れてきてはいるらしいし,一般の人々は難しい問題についてはあまり考えないという実情もある)。それに対して日本では医師への不信の念はかなり根強い。権威主義,隠し事や誤魔化し,組織防衛などを日常的に目の当たりにする中で,一般の人々は不満を溜めこみ,疑念や不安を抱いている。患者中心の医療が盛んに喧伝される昨今でも,医師との関係に悩んでいる患者が少なからずいる。ロックの見立てに従えば,そうした一般の人々の疑念や不安が,法曹界や,医療界の一部,多くの知識人による「脳死」反対の大合唱に刺激され,かき立てられたことが,「脳死論争」という希有な事態の背後にあった(この点で小松も少なからぬ影響を及ぼした一人である)。


 ロックによれば,日本の文化の焦点は「家族」(広く言えば「親密圏」)にある。同様の認識は日本人の小松にもあるが,彼の場合はそれが生きられており,立論の原点になっている(「人間の尊厳」とは「あなたの側にいること」である)。したがって死もまた家族の中にあり,「社会的な死」を第一義とする。もちろん人類社会のどこでも,個人を強調する北米や欧州であってすら,家族の気持ちは重要であり,法律の文面はともかく,実際には家族の同意なしに移植は行われない。だが,日本では「家族」の比重がとてつもなく重く,それが臓器移植法にも反映されている。日本社会での家族の位置を見すえつつ,そこからロックは北米社会向けに二つの観点を引きだす。

 その一つは,人の死はなによりも「社会的な死」であって,医学的・生物学的・法律的な死ではないという観点である。小松は「脳死=人の死」が成り立たない理由として,現行の脳死判定基準では脳の状態の一面しかとらえない点と,脳の機能は身体の有機的統合の「調整」という見方がより適している点を挙げたが,ロックもまた前者の点に賛同して,無理やりに構成された「脳死」はもはや成り立たないと考える。その代わりに「不可逆性の基準」を前面に押しだし,不可逆的に意識が消失し,自発呼吸が消失することをもって「社会的な死」としようと提案する。この場合,遷延性の植物状態の患者は,自発呼吸をしているから死んではおらず,臓器提供の候補者にはならない。

 もう一つの観点は「家族的親密さ」の継承と克服である。北米では苦しんでいるレシピエントの側に関心が注がれる一方で,ドナー側の「安らかな死」や臓器の由来についてはあまり考えない。ロックはこの点でドナーの家族側にも配慮し,匿名にするかどうかを個々人が選べるシステムが好ましいと提案する。その上で移植を積極的に進めるべきであり,このためには臓器の贈与を基本的に,個人間のやりとりを越えて「社会への奉仕」として受け取ることが必要だと主張する。

 これに対して小松の視線は,何よりもドナー側(というより,生死の境界にある人)と,これを見守る家族の側に注がれる。小松から見れば,ロックの主張は本質的に「人格の死」の考え方に立っており,植物状態の人は死んでいないとする付言も取って付けたようなもので,すでに「滑りやすい坂道」を転落している。実際,ロックは条件付きではあるが,遷延性の植物状態が12ヶ月以上続き,回復の兆しが見られない場合のケアの打ち切りを提案している。逆にロックから言わせれば,小松の視線は家族の「きづな」を絶対化するもので,個々人の多様な思いを理想的な一色で塗っている(いかなる状態であれ,あなたが側に「いる」こと)。ロックは本の中で,DNR(「蘇生せず」とカルテに記載された患者の希望)が,日本の医療現場では無視される傾向を紹介しているが,たしかに現場では人工呼吸器を取り外すことを家族も医師も言い出せない雰囲気がある。ロックを離れて言えば,時折「安楽死事件」がセンセーショナルな形で浮上してはやがて消えて行くのも,そうした氷山の一角であって,家族の「きずな」という物語による抑圧の悲しい帰結と言えよう。


 両著とともに私たちはいわばポスト「脳死」時代を生きることになる。「脳死=人の死」物語を持ちだすことなく,改めて医療の原点に立ち戻って移植医療を見直すことが求められている,という意味である。しかし,移植医療にとってその見直しは,以下に示すように本質的にきわめて困難なものにちがいない。

 医療の原点とは,ロックや小松も示唆するように,臨終にさいして一人の患者の「安らかな死」が全うされることではなかろうか。この「全うされること」に,死にゆく人を取りまく人々の種々の思い遣りが重なり,尊厳と厳粛さが伴う。移植医療が進められるとすれば,この「安らかな死」を保証した上でのはずである。ところがロックが描写するように,実際の移植医療では,時間との戦いの中で物事が性急に処理されざるをえず,それが日常化すればするほど,「安らかさ」や思い遣りや尊厳と厳粛さが(いかに推進者が留意したとしても)忘却され,風化してしまうだろうことは,想像に難くない。とすれば,「脳死」物語に依拠せずして一人の患者の「安らかな死」を優先させたとき,はたして移植医療は成り立つのだろうか。

 しかし他方で,苦痛に喘いでいる患者がいて,移植が緊急に必要とされる場合も確かにあろう。「安らかな生」を求める患者の願いを否定することは,誰にもできないはずである。さらに,がんの治療の選択(侵襲的治療を受けないという選択も含めて)と同様に,移植が選択肢の一つとなり,小松による批判を考慮した上でも,生存率の点や生活の質の点でベターという状況があるかもしれない。とすれば,一方の側の「安らかな死」と他方の側の「安らかな生」とをつなぐためには,私たちはどのように考えたらよいのか。この困難な課題に向き合うさいに考慮すべきだと思われる論点を二つだけ挙げておきたい。

 その一つは,「安らかな死」の全うのされ方の多様性である。死の迎え方・看取り方には,おそらく個々の患者ごと,個々の家族ごとに様々な形があろう。人工呼吸器を付けるか付けないか,取り外すか外さないか,外すとしたらどの時点かといった事柄の選択は,全うの仕方を具体的に決定する。装着せずに潔い死に方を選ぶ患者の意向を,支持する家族もあれば,拒否する家族もあろう。いつまでも延命されることを望む患者もいれば,それを望まない家族もいるだろうし,その場合の理由や事情も千差万別であろう。あるいは,ポスト「脳死」時代でも移植ドナーを希望する患者はいるかもしれないし,少数ながらこれを支持する家族もいれば,拒否する家族もいることだろう。お互いに微妙な食い違いを見せるのは,相手を無視するからではなく,むしろ思い遣るからこそなのである。したがって,相手を気遣う思いの深さを一色で塗るべきではない(この点は小松だけでなく,ロックにも当てはまる)。「国家」や「個人」や「市場」を相対化し限定する視線を,私たちがさらに「家族」にも差し向けることによって,医療現場や公共の仕組みの内部に,多様な思い遣りの微妙さに耳を傾け,それらを掬い上げる姿勢を根付かせる必要があろう。

 もう一つは,死の迎え方・看取り方を私たちが明確にすることに関連して,その拠り所となる生命観である。アメリカと日本での相違は脳死論争だけではなく,中絶問題への対応もまたきわめて隔たっており,「脳死」への対応と好対照をなしている。つまり,アメリカでは政治問題化して賛否両陣営の間で戦闘状態に陥っているが,日本では論争の域にすら達していない。しかし,中絶と脳死・臓器移植とをつなげて考える必要があるのは,文化の理解のためばかりではない。生まれ方・迎えられ方と死に方・看取り方とをつなぐことで,誕生して死ぬという生命過程や,さらには誕生以前と死後を含めた生命の循環運動が浮かび上がるからである。このような生命への視点から,死の迎え方・看取り方・死の見送り方を振り返るならば,その延長上で個々人にとって移植医療の意味づけも一段と深まり,より明確になる可能性がある。

森下直貴(もりしたなおき・浜松医科大学・倫理学)

生命ケアの比較文化論的研究