日本語版への編者序文


一 宗教をめぐる論争(略)

二 「宗教哲学」を知らずしてヘーゲル哲学を理解することはできない(略)

三 両刃の剣──宗教擁護と宗教批判(略)

四 包括的な比較宗教学をめざす先駆的な試み

 宗教についてのヘーゲルの精神哲学的な解釈は、さらにほかの点でも注目すべき創造的な豊かさをもたらした。宗教が論じられる場合、これまでは<異教→ユダヤ教→キリスト教>という連続か、<ユダヤ教─イスラーム─キリスト教>という並立といった図式であつかわれてきた。ヘーゲルの宗教解釈は、古代や中世にまでさかのぼるこの二つの図式から、宗教についての考察を初めて解放した。この二つの図式は宗教を哲学的かつ歴史的に理解するのに貢献したというよりは、むしろ護教的な目的に貢献してきた。つまり、自分たちの宗教〔キリスト教〕を真の宗教として保証し、他の諸宗教を間違った宗教なのだと解明し、あるいはペテン的な宗教であるとさえ暴露するのに役立ってきた。ヘーゲルにとっても、キリスト教は「完全な」宗教にあたる。けれどもその根拠は、キリスト教のみが真の神からの啓示を受けているからなのではなく、キリスト教の神観念のなかに精神の自己意識という、宗教の概念を余すところなく構成するものが主題化されているからなのだ。ヘーゲルにとって、あらゆる宗教がこの自己意識のさまざまな形態なのだということも、これに劣らず強調しておかなければならない。そのかぎりで「間違った」宗教というものはない。ただ、精神がまだ自身についてのふさわしい自己意識を得るにいたっていない、そのような諸宗教だけがありうるのだ。ヘーゲルはさまざまな宗教の全体が精神の自己知のそのような諸形態であることを明らかにしようと試みるなかで、初めて西洋(ユダヤ教とキリスト教から影響を受けながら西洋に政治的な脅威として圧力をかけているイスラームも含めた西洋)の宗教的な伝統を超えて、東洋の諸宗教にまで考察をおよぼした。その際、当時入手可能な宣教師や旅行家たちの報告書や最初の翻訳書、とりわけインドの諸宗教の聖典翻訳などに依拠した。もちろん今日のレヴェルで見れば、東洋の諸宗教についてのヘーゲルの理解は不十分だった、と批判するのは簡単だ。けれども、そう批判する以上に重要なことは、比較宗教学が専門分野として構築される以前に、ヘーゲルがこうした試みに敢えて挑戦し、学期を重ねるごとに理解を深めていったということである。その挑戦は、精神的な本質があるところならどこでも、その精神性は自分自身についての知に達しようと努めるものだ、ということを示そうとした。しかも、その自己知への到達は、こうした自己意識の他の諸形態である芸術と哲学と一体となって、さらにそれを超えて、精神生活の他の諸形態である法と政治とも一体となって展開するものだ、ということを示そうとした。これに匹敵するほど包括的な着想というものを、宗教哲学は今日にいたるまで知らない。

五 この翻訳書の意義

   それゆえ、……このたびヘーゲルの宗教哲学講義が日本語に翻訳されることは、私にとって大きな喜びである。一八二七年の講義は、ヘーゲルが初めて宗教哲学を体系的な形式で講じきることに成功したという点で際立っているからだ。その体系的形式は先行する年度においても初めからヘーゲルの念頭に浮かんでいたものではあったけれども、それをまだ十分に具体化するにいたらなかった。思想的な成熟度という点では、ヘーゲルが一八三一年に死ぬ前におこなった最後の学期の講義も、きっと優れていたであろう。ところが、この学期については十分な資料がない。そこでわれわれがヘーゲルの宗教哲学を知ろうとすると、とりわけ一八二七年の講義を参照せざるをえない。ここに刊行された日本語版は、ヘーゲル体系のこの重要分野を日本の読者に開示するとともに、ヘーゲル哲学全体の理解をも促進してくれるものと確信している。

  


                
一九九九年新春 ベルリンとボーフムにおいて
ヴァルター・イェシュケ〔ヘーゲル研究所長〕