『神と国家』要旨


ヘーゲルの原像をもとめる後期発展史研究の意義

 ヘーゲルはすでに一六〇年以上も前に没した思想家であるが、今なお、新しい資料が続々と出てきている。とくに晩年の講義を学生が筆記したものが数多く発見されている。その多くは未整理の状態で、すでに刊行されたもの、刊行が予告されているものはごく一部にすぎない。これらの新資料を読むと、既成のヘーゲル像が音を立てて崩れ落ちていく感がある。彼はすでに完璧な哲学体系を完成させ、その原理をさまざまな領域に適用していったという話がまったくの作り話であることがわかる。ヘーゲルはすでに出来上がった体系に安住するような思想家ではなかった。彼は最後まで現実と格闘し続け、みずからの体系を解体・再構築し続けた。その思想的営みは死によってのみ打ち切られた。
 ヘーゲル研究の焦点は次第にこの体系期の発展史研究へと移りつつある。この研究によってもたらされる影響は、前期(青年期、イェーナ期)の形成史研究を凌ぐことになろう。前期ヘーゲル研究は、それまで知られていなかった「体系以前」を初めて明らかにした。情熱的に時代の現実と格闘し諸思想と批判的に対決しながら体系を構築していったダイナミックなヘーゲル像が描かれた。それはたしかに新鮮な衝撃だった。けれども、それは「ヘーゲルの体系」なるものを固定したままで、「体系への途上」を新たに付け加えるにとどまった。「体系への途上」は実際は体系期においてもなお続くのに、ひとたび出来上がった体系を頑に固守するというヘーゲル像がおもに体系期の著作と講義から作られた。近年の発展史研究も資料的な制約から体系期にまで及ばなかったために、「若きヘーゲル」対「老ヘーゲル」という分裂が持ち込まれた。それゆえ、発展史的考察を最晩年にまで及ぼし前期の発展史研究と結合しないかぎり、分裂したヘーゲル像の克服、旧いヘーゲル像の全面的な刷新は期待できないのである。


『宗教哲学講義』の最新版にもとづく形成史研究

 近年、講義録の新しいテクストが刊行されるにおよんで、ようやくこの分裂を乗り越える地点にわれわれは達しつつある。本研究は一九八三~八五年に刊行された『宗教哲学講義』の最新版に基づいて、ベルリン時代の宗教哲学の生成をあとづける。そのさい、<宗教と国家との関係>についての思索に焦点を据える。その理由の一つは、両者の関係をめぐる問いは、『ローマ書』にまで遡り、これをめぐってキリスト教とヨーロッパの歴史が展開されたと言っても過言ではない程の重要なテーマだからである。また一つには、この問いは実にヘーゲルがテュービンゲンで学問的修業を開始してからベルリンでその生涯を閉じるまで一貫して深刻なテーマであり続けた唯一のものであり、このテーマについてのみ、彼の全生涯を通じて、その発展をたどることができるからである。若きヘーゲルと老ヘーゲルとの分裂したイメージを克服する上でも、<宗教と国家との関係>というテーマは、最初期から最晩年まで貫く赤い糸として、恰好のテーマなのである。


本書の構成

 第一章では、『精神現象学』までの前期宗教思想の軌跡をたどる。
 第二章では、ベルリン期の「宗教哲学」講義の歴史的背景を取り上げる。
 第三章では、『宗教哲学講義』の新版に基づいて、各年度ごとの編成原理と構成の変化を歴史的・構造的視点から考察し、「宗教哲学」の形成過程を解明する。
 第四章では、『宗教哲学講義』以外のテクストも加えて、宗教と国家の関係をめぐる思想的変遷をたどり、ヘーゲルの言う「プロテスタンティズム」の意味を考える。
 補論一では、『宗教哲学講義』の新版の編集の意義(第三節)を理解するために、宗教哲学講義の資料状況(第一節)と旧版の成り立ちと性格(第二節)を検討する。
 補論二では、『宗教哲学講義』の新版がイェーナ時代のテクスト『精神現象学』の解釈の変更をも迫ることを示す。『精神現象学』の「光の神」は、これまで『宗教哲学講義』の旧版との比較から、ゾロアスター教の光の宗教のことだと解されてきた。しかし、これが疑問の余地なくユダヤ教の記述であることを、新版との比較検討から実証する。


第一章 ギリシアの祝祭宗教への憧憬とその断念

 若きへーゲルはドイツの近代化をめざす宗教政治革命を期待していた。そのために人間性の尊厳を覚醒させる自由な宗教の理想をギリシアの祭祀宗教のなかに求めた。そこには、ギリシア人が芸術宗教を媒介としてポリス的統合をなしとげ、国家そのものを一個の美しき芸術作品にまで仕上げていたという古代美化が根底にあった。ギリシアの芸術宗教への憧憬とその現代的再興への要求、すなわち芸術による近代化革命、これが、ヘーゲルと祝祭的な芸術宗教とのかかわりの出発点をなしていた(第一節)。
 こうした理想を捨てきれないままイェーナに移ったヘーゲルは、人倫(国家)論のなかに宗教祭祀を位置づけようとする。イェーナ初期の人倫論はギリシアの古代政治哲学と祭政一致を基本的な枠組みとする点に特徴があった。したがって、人倫の祭祀として考えられていたものもギリシア的祝祭宗教であった。だが、この理想がついに断念され、キリスト教が人倫の祭祀とされるにいたる。これはギリシア的な祝祭宗教の復権による宗教政治革命路線の撤回を意味する。この転回は、宗教史の構想と、キリスト(聖餐、教団)論のなかで正当化される。このプロセスをたどって、最後にこの両者が『精神現象学』の「宗教」章のなかで成熟する様を考察する(第二、三節)。
 『精神現象学』から「宗教哲学」の初開講までの十四年間は、総じて宗教思想の不作の時代であった。宗教思想が新たな展開を示すのは、ベルリンで「宗教哲学」が開講された十一年間である(第四節)。


第二章 恐怖政治と宗教反動の時代を生きて
--ベルリンにおけるヘーゲルとシュライアーマッハー

 「宗教哲学」の開講はシュライアーマッハーの『信仰論』に対抗して慌ただしく決断された。それゆえシュライアーマッハーとの関係を軸に当時の歴史的状況を把握しておくことが、是非とも必要である。たしかに、両人の激しいライバル意識は有名だが、これを単なる私的なライバル意識に帰するわけにはいかない。そこにはプロイセンの教会合同政策をめぐる確執という、もっと大きな背景があった。ところが、教会合同の歴史についてはわが国ではその詳細が知られておらず、ヘーゲル研究のなかでもほとんど取り上げられることがない。そのため第二節で、ドイツにおける教会史研究にもとづいて、この事情を明らかにした。このなかで、シュライアーマッハーが国王と直接対決し公職追放一歩手前までいったのに、ヘーゲルはこれを強い関心をもって注視しながらも、最後まで沈黙を守り通したという事実をつきとめた。
 ヘーゲルはハイデルベルク時代の弟子ヒンリッヒスの『宗教論』に「序言」を捧げて、その刊行(一八二二年)を支援した。これはシュライアーマッハーとの対決の必要から生じた「へーゲル派」の旗揚げであった。ヘーゲル学派の分裂はしばしば論じられるが、学派の形成についてはよく知られていない。第三節では、この形成の事情を書簡などで詳しく解明した。
 このヒンリッヒスの『宗教論』に寄せた序言は、シュライアーマッハーに対する激越なな批判を含んでいた。これが新敬虔主義という新しい敵を刺激し、ヘーゲルは汎神論者として攻撃されるようになる。これ以降、ヘーゲルは苦境に立たされ、死ぬまでこの防戦に追われることになった。この新しい神学的勢力を代表するのが、A・トールクである。彼は『エンツュクロペディー』にも登場する重要な人物であるが、これまで主題的に取り上げられることがほとんどなかった。第四節では、トールクによる汎神論攻撃とそれに対するヘーゲルの反撃を考察し、一八二七年の『エンツュクロペディー』の改訂の意味を、宗教的反動に対する闘争という観点から明らかにした。ベルリン後期のこの論争は、晩年の思想を読み解く重要な鍵となろう。
 ヘーゲルとシュライアーマッハーというと、その対立関係はあまりにも有名である。ところが意外にも両者は晩年に歩み寄った形跡がある。新敬虔主義の登場と汎神論攻撃によってヘーゲルは戦略転換を迫られ、シュライアーマッハーとの同盟を模索し、両者の間に共同戦線が形成されつつあった。このことが『宗教哲学講義』の新版によって初めて読み取れるようになった。これを単なる政治的な戦術としてではなく、二人の間に共通する思想的基盤があったことを明らかにしたい。そのためには、シュライアーマッハーについての一般的な理解を、とりわけヘーゲル研究者の偏見を改める必要がある。シュライアーマッハーについては近年、解釈学のほうから新しい視点での見直しがなされている。ヘーゲル学のなかでも、これをいつまでも古いイメージのままに放置しておくわけにはいかない。ヘーゲル研究者のシュライアーマッハー像はたいてい『信仰と知』のなかで展開されている『宗教講話』(一七九九年)への批判からきているように思われる。だがこの初期の作品にのみ固執すると、一面的な理解に陥る危険がある。彼の成熟した宗教思想としては『信仰論』(一八二一/二二年)とその改訂版(一八三〇/三一年)が基本に据えられるべきである。ヘーゲルは『信仰論』の改訂版を見て、一八三一年にさらにシュライアーマッハーに接近していったと思われるふしがある。ところが、『信仰論』の研究それ自体が非常に少なく、ましてや改訂版との比較研究となると世界的にも立ち遅れており、わが国ではほとんどないという状況である。これを全面的に行うのは大変な作業になるが、第五節では、「宗教哲学」に関わる範囲で比較検討した。その作業は、ヘーゲルの「宗教哲学」講義とシュライアーマッハーの『信仰論』とを相互影響史のなかで捉え直すことになる。これはヘーゲル研究においてのみならず、シュライアーマッハー研究においてもまったく新しい視点である。ヘーゲルとシュライアーマッハーとの共同戦線はヘーゲルの死によって萌芽的なものに終わらざるをえなかった。しかし、この萌芽があったことを認めることは重大な意味をもつ。二人が最後まで厳しい対立関係にあったという前提のもとでは、両者の相互影響史研究は実り豊かなものにはなりえない。晩年にすでに両者を結びつける絆がつくられつつあったという新しい前提に立って、初めて偏見なくこうした課題に取り組むことが可能となるからである。
 このような歴史的背景を理解した上でテクストを読まないと、学期ごとの微妙な表現の変化のなかに重要な思想的転換を読み取ることはできない。とりわけ新敬虔主義的な正統主義の攻撃と、それに応じてなされたヘーゲルの戦略転換は、「宗教哲学」講義の上に大きな影を落としているからである。


第三章 「宗教哲学」の生成と構造

 ここでは「宗教哲学」講義の各年度ごとの編成原理と構成の変化を三部構成にしたがって考察する。  「序論」と「第一部 宗教の概念」でヘーゲルは講義全体の構成を示そうとするが、ここで一番苦労する。宗教にはすでに早くから強い関心を寄せてきたが、そもそも宗教とは何かを大学の講義として論じるのは初めてだった。初年度にはまさに目を覆いたくなるような破綻に陥っていく。二回目の一八二四年に体系的な叙述の原理がつかまれ、三回目の一八二七年になって初めてその原理を全体に貫いて叙述しえた。ようやくこのときに講義の基本構成が確立する(第二節)。

 第二部の宗教史の講述では、世界の様々な宗教を一つの一般宗教史のなかに配列するために、ヘーゲルは悪戦苦闘を繰り広げている。
 初年度の講義は宗教史に『論理学』の三区分(存在、本質、概念)をそのまま当てはめており、いたって図式的なものだった。この論理学的に構造化された一般宗教史という構想はのちに断念され、無差別的一体性から裂開をへて再和合へ、という宗教的意識の進化を表わすパラダイムへと乗り換えられた。もはやこれは概念的図式の押し付けとは言えない。宗教史の素材の解釈にいっそう即するものである。異文化の諸宗教について当時ヨーロッパにもたらされた最新の情報に学び、知見を拡げ理解を深めたことによって、論理学的カテゴリーによる配列が最終的に不可能になった。かわって一八三一年には、アジア、中近東、ヨーロッパという地理的な類型論が姿を現わしてくる。こうした変化のなかには、キリスト教をテロスとする進化論的な一般宗教史から、諸宗教の特徴をつかまえた宗教地理学的な類型論への発展が認められる。四つの学期で、ほとんど思いつく限りの編成が次々と試みられた。組み立てては壊し、壊しては組み立て、文字通りの解体・再構築が繰り返された。第二部は異文化の諸宗教を相手に、宗教と社会と意識との包括的な関係を構造的に捉えようとして格闘した壮大な実験だったのである。
 この宗教史の試行錯誤のプロセスは、『歴史哲学講義』の新しいテクストがまだないという状況のなかで、歴史哲学の形成過程を解明する上でも貴重な手掛かりになる。ヘーゲルの歴史哲学はヨーロッパ中心主義の進歩史観だと単純には言えなくなった。多様な文化の類型論への萌芽が認められるからである。第二部の宗教史はその意味で、もう一つの「歴史哲学」なのである(第三節)。
 第四節では、各個別宗教のなかでとくにユダヤ教の評価と位置づけの変化に注目した。ユダヤ教はヘーゲルが青年期から強い関心を寄せてきた宗教の一つでありながら、意外にも、「宗教哲学」のなかで位置づけと評価がもっとも大きく揺れた宗教だった。初年度には、青年期とほとんど変わらない否定的な評価がくだされていた。しかしこれは、キリスト教と思弁哲学との一致を基礎づけようとする体系期の思想からすれば、厳しすぎる評価であった。キリスト教との関係で、旧約の神をもそれなりに評価する、よりバランスのとれたものに置きかえられる必要があった。転回は一八二四年に始まる。奴隷的な服従のみを強いる「絶対的な威力」の神は、奴隷的な卑屈さを精神性の高みへと引きあげる「智恵」の神へと変身した。『ヨブ記』の理解の深まりがその基盤にあった。また、ガンスやハイネなどユダヤ人との交友が深まるなかで、彼らへの配慮もあった。さらに、「汎神論者」という非難が激化するなかで、唯一神・人格神の立場を鮮明にする必要に迫られたことも影響している。多神教への異教趣味が断ち切られ、ないしはカモフラージュされた。二七年にユダヤ教への肯定的評価は頂点に達し、ギリシア宗教よりも高く位置づけられさえした。けれども、この過大評価によって、今度はギリシア宗教の特徴や、キリスト教の優越性が不明確にさえなった。「宗教哲学」の体系に即して見た場合、よりバランスのとれた評価が本来求められていたのである。ところが、七月革命という衝撃的事件がこれを許さなかった。古代イスラエルの宗教の叙述は、時代の波をかぶって、大きく揺りもどされた。ユダヤ教は「自由の宗教」に数えられながらも、その肯定的な内容の多くが大きく後退してしまった。こうしてヘーゲルは生涯の非常に早い時期からユダヤ教に特別の関心を寄せてきたわりには、ついに安定した叙述に達することはなかったのである。

 第三部のキリスト教論は、青年期からの蓄積があって、その構成に最初から安定感がある。それでも、キリスト論と教団論などの位置づけに重大な変化が見られる。第五節では、こうした変化に注目しながら、ヘーゲルの三一性の哲学が、ヨアヒムの「自由の王国」論の復権をねらう社会哲学的モチーフを含むものであることを明らかにした。
 三位一体の教義は当時キリスト教に無用の教義として消し去られようとしていた。啓蒙主義は三位一体論を否定することによって神を貧相な抽象物にしてしまった。啓蒙主義と対決した敬虔主義者も三位一体の後半の展開を無視して原罪とそれからの解放者(贖罪者)としてのキリストを教義の中心に据えた。三位一体論を軽視・抹消するこうした傾向をヘーゲルは、時代の危険な徴候として受けとめた。それは、三位一体の思想を失えば、神は彼岸に存する「認識しがたい至高存在」としてしか規定しえなくなるからである。また、キリストによる贖罪にとどまって、キリストの復活から聖霊の降臨によって生じる「霊」の段階が無視されると、罪の意識のみが強調され、道徳的無力感が強まって、教会の権威への服従を招くからであった。こうした傾向から三位一体の真実の内容を守るためには、この教義を哲学のなかへと緊急避難させなければならない、とヘーゲルは考えた。このように三位一体論に自由論を読み込むことは、けっして教義史に異質な試みではない。むしろ三位一体のドグマの歴史のなかには早くから神学的自由論の文脈があった。それは十二世紀のヨアヒム・フォン・フィオーレの「三位一体的な自由の王国論」に遡る。彼は神の支配の歴史を「父の国」、「子の国」、「霊の国」という三段階で捉える救済史を構想した。この救済史論は近代になって、レッシングによって再び取り上げたが、この構想をヘーゲルは引き継いでいる。ヘーゲルにおける三一性論と自由論との結合点は、キリスト教神学の伝統そのものから来ているのである。彼にとって三位一体論は、自由はいかにして可能かという思弁哲学の根本問題に対して思弁哲学に先立って与えられていた解答であった。すなわち神と世界および人間との関係、父と子と聖霊との関係を捉える三位一体論は、<他者への関わり>を<自己自身への関わり>として考えるパラダイムであり、これこそヘーゲルの自由の概念、すなわち<他において自己のもとにあること>にほかならなかったからである。三位一体の教義と無縁なところで汎論理主義的な三一的な体系がつくられ、それに後から神学的な衣裳がかぶせられたのではない。また、哲学によって一度も考えぬかれたことのない信仰を前提して、それを後から概念的に解釈し直したものでもない。そうではなくて、三位一体の教会教義そのものが思弁哲学と類似の問題から発した類似の思想的試みなのであった。
 講義を締めくくる言葉にも学期ごとに大きな変化が見られる。一八二一年には、講義を締めくくる節は「教団の消滅」という諦観的なものであった。これが一八二七年には「一般的現実への教団の精神の実現」、一八三一年には「世俗における宗教の実現」へと変化する。ヘーゲルは一八二七年に、宗教と国家の関係について一段高い思想的境地に達し、その新しい観点から教会と国家の関係を捉えるようになる。十一年間にわたる「宗教哲学」講義のなかで、彼の思想が最終的に収斂していくところ、それは、哲学と国家における宗教の実現という境地だった。
  


第四章 プロテスタンティズムの原理と近代国家の精神

 ヘーゲルは宗教的反動と対決し、次第に「プロテスタンティズムの原理」を「主体的な自由の原理の旗印」として鮮明に掲げるようになる。一八二七年の『エンツュクロペディー』の改訂版が大きな節目になり、この頃から宗教と国家との深い一致を強調するようになる(第一節)。こうしたなかで、七月革命に大きな衝撃を受けたヘーゲルは、「宗教が国家の基礎である」という自らのテーゼをこの事件に照らして再度検証している。これは、事件後に開講された二つの講義、一八三〇/三一年冬学期の「世界史の哲学」と一八三一年夏学期の「宗教哲学」のなかでなされた。このなかにこそ七月革命に対するヘーゲルの根本的態度を見るべきであるのに、これまでの研究はこのもっとも重要な資料を十分に活用してこなかった。そのために、エピソードを中心としたコラム的な記事に終わることが多かった。それは、旧版の不適切な編集によってこれらの学期の講述内容が特定できなかったためでもある。だが、近年発見された新資料によって七月革命に応えてなされた講述部分が特定できるようになった。第二節では、これらを手がかりに、人生最後の一年になされたこれら二つの講義に基づいて、ヘーゲルと七月革命の関係を新しい光のもとで捉え直す。
   「宗教が国家の基礎である」とか「キリスト教の原理に基づく国家」という言い方は、祭政一致の神政国家を連想させ、誤解を与える表現である。そのため、この真意はこれまで十分に捉えられてこなかった。第三節では、「国家における宗教の実現」という思想の真意を、世俗化論やトレルチの「新プロテスタンティズム」の概念との関わりのなかで、明らかにした。ヘーゲルのプロテスタンティズムも「啓蒙化された」新プロテスタンティズムの陣営に数えることができる。彼は近代的な主体性の原理をプロテスタンティズムの核心と捉え、この「新プロテスタンティズム」の立場から宗教改革の意義を見直し、これを近代の開始点に据えた。いわば、ルター以後に本格的に展開する近代的精神を宗教改革のなかに先取り的に読み込んだ。彼はしかし、当時の宗教的思潮のなかで、彼の言う「プロテスタンティズムの原理」を眼前のキリスト教会の伝統的な宗教と神学の形式で生かす可能性はほとんどないと見た。そこから、自由と人間性の理念という「宗教的内容は概念へと逃避する」という有名なテーゼが語られる。この「宗教的内容」の避難先は哲学と人倫である。宗教の内容は人倫へと救い上げられ、そこに実現される。久しく宗教と教団のなかに保持されてきた実体的真理が、今や他の場所へ移されなければならない、つまり哲学と人倫的生活のなかへ移され、そこに保持されなければならない。これが、ヘーゲルが一八二七年以降に最終的に到達した境地であった。

 


 付録1には、「宗教哲学」講義の学期ごとの構成を一目で比較できる表を載せた。
   付録2では、新版編者の調査をふまえて、ヘーゲルが異文化の宗教研究に用いた主な資料を一覧できるようにした。これらは、ヘーゲルの資料源を確定するだけでなく、当時のヨーロッパにおける東洋学の状況を知る上でも貴重なものである。
 
 本書は『宗教哲学講義』の新版の日本語版のテクストがまだないという状況のなかで、新版を用いたわが国における最初の研究であるため、新版で初めて明らかになった事実や重要な講述内容などをできるだけ多く紹介するよう心掛けた。