研究情報
講義録新資料にもとづくヘーゲル像の刷新
--後期発展史研究の前進のために 

山崎 純


Die Revision des bisherigen Bildes von Hegel aufgrund der neuesten Forschungen von der Nachschriften der Hegelschen Vorlesungen --Zur entwickelungsgeschichtlichen Untersuchungen ueber die spaeten Gedanken Hegels.
Jun YAMASAKI(Shizuoka University)
1 ヘーゲル研究の新時代--講義録の意義

 哲学研究、とりわけ過去の思想史研究は信頼に値する確かな資料に基礎を置かなければならない。現代のヘーゲル研究も厳密な文献考証にもとづく新しいテクストの編纂に先導されながら発展してきた。現在もっとも権威あるテクストは言うまでもなくボーフムのヘーゲル・アルヒーフを中心にして編纂されてきた大全集版である。この大事業はヘーゲルの著作と自筆草稿を中心とした第一部の編集がほぼ完了し、いま講義録の編集という第二部の目標に向かっている。その先には第三部の書簡と書類および索引の編集が残される。イェーナ期の論文や草稿の新しいテクストの編集をもって始まったこの事業と並走するようにして、イェーナ期や青年期の思想形成過程の解明がここ二十年来の研究の焦点だった。これと同じように、今後はヘーゲルが行った講義の確かな記録に基づいて後期思想の発展史的解明が研究の中心になっていくであろう。ヘーゲル研究はいま新しい時代を迎えつつある。 ヘーゲルはハイデルベルク大学とベルリン大学で31ゼメスターにわたって休みなく講義を行った。出版文化やマスメディアが今日ほど発展していない時代にヘーゲルが与えた影響は、とりわけ講義に基づいていた。講義のなかでヘーゲルは学生(弟子)を獲得し学派を形成していった。突然の死によってこれが中断された時、弟子と友人たちは講義の内容を直ちに全集にまとめて、学派の影響力を保持しようとした。『宗教哲学講義』が先陣を切ってヘーゲルの死後わずか半年で刊行されたのにはそれなりの意味があった。けれども、この拙速ぶりは歪んだヘーゲル像を固定化し、負の遺産となってその後の研究に重くのしかかってきた。ヘーゲルが書いたものはたいていどれも難解である。これに対して口述された講義は分かりやすい。そのため、通俗的なヘーゲル像の多くが、弟子たちが編集した『○○講義』から作り上げられ広められた。
 そもそもこの全集版にはヘーゲル未亡人の意向が強く反映しているという。彼女はこの全集版によって保守的なヘーゲル像を確かなものにし、やもめ暮らしの安定を図りたかった。夫の遺稿を手中にしている未亡人は、誰にどの資料を貸し出すかの選択を通じて、全集の編集にあれこれと口を出した。その後の研究はこの未亡人の意向に振り回されてきたとも言える。最初の全集版はヘーゲルの生前に公刊されていた著作にも数々の改竄をおこなった。それらの多くは、グロックナー版やホフマイスター版などですでに修正されてきた。しかし『講義』類は根本的に改められることなく、現在もっとも普及しているズールカンプ版にまで引き継がれている。これらはおよそ信頼に足るテクストではない。この負の遺産を本格的に清算する時期がようやくやって来たのである。研究のさらなる発展のためには厳密な文献学によって信頼に値するテクストが与えられることがまずもって必要である。ヘーゲルの精神的な遺産の真実が史料批判的全集のなかに救い上げられ保存されることが期待される。文献学こそ研究発展の基礎である。これまでの研究がどのような編集の上に立っていたかという<編集史的な自己意識>をはっきりもって研究の新しい時代に向かわなければならない。
 以下において、今後の講義録研究の見通しを精神哲学の諸分野を中心に述べてみたい。


2 「法(権利)の哲学」講義の発展史的考察の必要

 「自然法(権)と国家学または法(権利)哲学」はイルティング版の刊行によって早くから講義録資料が利用できた分野であるが、近年イルティング版への批判が高まるなかで、資料の精査と研究視角を含めて研究の根本的なやり直しが必要な時期にきている。「カールスバート決議によって検閲規定が設けられたことに恐れをなして、ヘーゲルはすでに出来上がっていた『法(権利)哲学要綱』の原稿を復古政治に順応するように改稿した」という「イルティング・テーゼ」は、今ではイルティングの空想の産物だったことがはっきりした(詳しくは水野建雄「ヘーゲル『法哲学』の生成と理念」筑波大学『哲学・思想論集』第12号、神山伸弘「イルティング・テーゼ」『現代思想』21-8参照)。
 アメリカで発見された一八一九/二〇年の講義録は、この存在しなかった「改稿時期」の記録として、D・ヘンリッヒの編集によって刊行された(Hegel, Philosophie des Rechts. Die Vorlesung von 1819/20. Hrsg. von D. Henrich. 1983.この資料の意義については加藤尚武『哲学の使命』第九章、未来社)。最近、この記録は幾つかの資料のつぎはぎではないかという疑問が出されている。この筆記録はもともと「法(権利)哲学と政治学」というタイトルをもっていて、ヘーゲルの講義題目「自然法(権)と国家学または法(権利)哲学」と違っていた。これを編者ヘンリッヒはいとも簡単に『ヘーゲル 法(権利)哲学』というタイトルに置き換えているが、ここには大きな問題がある。助手のヘニングによる復習授業が「法(権利)哲学と政治学」について語っていたことから、この筆記録はヘニングの補習授業の影を色濃く映しているのではないかという疑いがある。ヘンリッヒはこの資料に基づいて、ヘーゲルは市民社会の新しい貧民に革命権を認めようとしていたと言っているが、この考えは、ブルシェンシャフトのメンバーでありデマゴーグの容疑で投獄経験をもつヘニングのものであった可能性が高い。
 「講義録シリーズ」第1巻として刊行された一八一七/一八年のバンネマンの筆記録は、ハイデルベルク大学でなされた「法(権利)哲学」の初講義の記録である。これにも一つの謎がある。一八一七年の六月に『エンツュクロペディー』が刊行された。その直後の「法(権利)哲学」講義は本来ならば、これの「客観的精神」を教科書にしてなされるはずであった。ところが、講義はこれを用いずに書き取り方式で行われた。以後、「法(権利)哲学」講義は『エンツュクロペディー』から切り離され、独立した学科として講義されることになる。おそらく、ヴュルテンベルク議会を舞台とする激しい憲法闘争が、刊行されたばかりの『エンツュクロペディー』を早くも不十分なものにし、ヘーゲルを国家論の再考に向かわせたのであろう。法(権利)哲学はナポレオン失脚とウィーン会議後のヨーロッパの、とりわけ南ドイツの憲法闘争との深い関わりのなかで彫琢されていき、「客観的精神」の権利論以降の五〇節が三六〇節ににふくれあがり『法(権利)哲学要綱』として結実した。
 一八二五年以降ヘーゲルは法(権利)哲学講義を弟子に任せた。一八三一年、皇太子から「ガンス教授はすべての学生を共和主義者にしてしまう。彼はあなたの法(権利)哲学講義を完全にリベラルに、さらには共和主義的に脚色している。なぜ、あなたは御自分で講義しないのか」と叱責され(Br.3.472)、その冬学期に久しぶりにみずから登壇するまで、ヘーゲル自身の「法(権利)哲学」講義はなかった。そのため、これにかかわる思想の展開は「宗教哲学」(例えば、一八三一年の第一部の末尾「国家と宗教の関係」)や「世界史の哲学」などでなされる。法(権利)哲学の発展史研究はこれらの講義での新たな展開をも視野に入れていかなければならない。
 これまで唯一欠けていた一八二一/二二年の講義録も一九八四年に発見され、これですべての学期の筆記録がそろった。「法(権利)哲学」講義は資料の公開がもっとも先行した分野であるが、わが国におけるこれまでの研究は新資料を『法(権利)哲学要綱』を理解するために活用するというスタイルがほとんどであった。資料がほぼ出揃った今、憲法闘争を視野に入れつつ、『エンツュクロペディー』の三つの版、『民会討論』『選挙法論文』などの政治論文、他の講義との連関も含めて、発展史的観点を前面に出した包括的な研究が望まれる。


3 「歴史哲学」最終講義未公刊資料の衝撃的な内容

 「法(権利)哲学」の最後は「世界史」である。この部分が「世界史の哲学」として初めて独立して詳細に講義されたのは一八二二/二三年であった。以来、終焉の年まで五度開講された。「歴史哲学」はヘーゲルの思想のなかでもっとも話題にのぼる学科だが、これについても大きな思想的な転回と発展があった。その要点を四点に整理して『神と国家』(創文社)一五頁注4に示した。このうちもっとも注目に値するのはヘーゲルの近代認識にかかわるものである。ヘーゲルがフランス革命の歴史的意義を高く評価し続けたことはよく知られている。他方で、啓蒙の抽象的な原理とテロリズム以降の革命の経過に対して厳しい批判の眼をもっていた。革命に対する評価が最終的にどうなったかが問題である。カール・ヘーゲル編集の『歴史哲学講義』の現行版は、終焉の年の講述を伝えながらも、この点に曖昧さがある。これは息子カールが父の講述を勝手に書き換えたことによる(山崎純「ヘーゲルの原像をもとめて--後期発展史研究の幕開け」『創文』一九九五年三月)。オランダのユトレヒト大学図書館にアーカスダイクの筆による「世界史の哲学」最終講義の筆記録が保存されている。このマイクロフィルムを昨年入手することができた。四三九頁におよぶ詳細な清書稿である。この筆記録と現行版をくらべてみると、カール・ヘーゲルによる改竄は一目瞭然である。例えば、近代の自由の原理の発展にかんしてアーカスダイクは次のように筆記している。
「思考における自由というこの原理とともに、われわれは世界史の最後の段階に移行し、われわれの時代の精神へと移ります。この原理はさまざまな規定をもっているということをすでに述べました。正当で倫理的であるものは意思のなかに、しかも、それ自身が普遍的である意思のなかに基礎づけられなければなりません。それゆえ、意思が本来どのようなものであるかを知らなければなりません。衝動はおのおのが勝手な思いを抱いて、互いに対立することになります。それゆえ、衝動も原理ではあるが、下位の特殊原理です。これに対して、下位の特殊原理でないものとは、特殊なものをなんら欲することなく、ただそれ自身のみを欲する意思そのもの、すなわち、純粋に自由な意思です。いまやこの最後の原理がとらえられました。そして、この純粋に自由な意思が最後の原理であり、あらゆる権利の実体的な基礎であるということが認識されたのです。この純粋に自由な意思がどのようにして再び特殊なものへと進展していくかは、ここでは詳しく展開できません。意思はその純粋な形においては、思考と同じものです。人間は意思です。人間は、意思をもち、その意思するところを行うかぎりにおいて、自由です。このことがフランスにおいてはとりわけルソーによって打ち立てられました。のちにドイツにおいても、それと同じことがカント哲学のなかで理論化されました。理論的な理性、純粋な意思は意思がもっている理性です。義務と権利は意思の自由の形式なのです。それは次のように定式化されました。私の意思において私は純粋に私のもとにあり誰もここに押し入ることはできない。人間のなかで攻略しがたいものこそ、その人の意思である、と。しかしながら、この意志の原理はたんに抽象的なもので、まだ具体的ではありません。そこにはまだ、何が義務で何が権利かが規定されておらず、権利や義務は私によって意思されなければならない、と言われているだけです。その意思は内容を欠いています。たしかに人々は直ちにこれに(フランス憲法の言う)社会の効用等々といった内容を与えようとしました。それゆえ、フランス人は直ちに実践に向かい、ドイツ人は理論にとどまりました。どうしてでしょうか? この理由はふつう考えられているより深いところにあります。抽象的な原理に対しては、具体的な現実、具体的な精神が対立します。なにゆえにドイツ人はこの現実に安らいだままにいたのでしょうか? その理由はただ一つ、彼らが具体的な現実に安らぎ和解していたからです。プロテスタント世界では法や倫理の領域で早くから和解が成立し、啓蒙は神学と教会から始まりました。これに対してフランスでは、啓蒙はまず教会に立ち向かいました。プロテスタントには修道院はなく、理性を欠く服従の要求や、教会によって聖別され抽象的に神々しいものに祭り上げられた王の正統性といった言語を絶する不法はありません。思考の原理はプロテスタントの意識のなかではすでにそこまで来ていたのであり、プロテスタントの意識は同時にまた、思考の原理が法(公法)をさらに形成していく上で目の前にある源泉であるということを知っていました」(475-479) 。
    これと現行版(長谷川宏訳『歴史哲学講義』岩波文庫、下三五二~六頁)とを是非読み比ベて頂きたい。息子はあちこちで父の言葉を書き換えている。何よりも驚くのは、ヘーゲルが自由の原理はフランスでは「とりわけルソーによって打ち立てられた」と言っているのに、現行版が次のようになっていることである。
「この単純な意思がどのようにして自由の内容に到達し権利や義務を身につけるにいたるか、それを哲学的に論じるのはこの場にはふさわしくありません。ここでは、純粋意思の原理をドイツで理論的に確立したのはカントの哲学である、ということだけを言っておきます」(同三五三~四)。
 カールはルソーの名を意図的に削除している。当時ルソーの名において自由の原理を称揚することはまだ政治的に不穏当だった。息子にはそのような政治的な配慮があった。それは、ヘーゲルの思想を保守的なものに描きたいという母(ヘーゲル未亡人)の意向に沿うものだった。
 現行版はこの調子で数々の改竄をしているため、最晩年のきわめて重要な思想的展開が見えにくくなっている。ヘーゲルは啓蒙主義とフランス革命を、ルターに始まるプロテスタンティズムの原理の首尾一貫した発展としてとらえ、これをはっきりと正当化したのである。アーカスダイクの筆記録からはそれが明瞭に見て取れる。われわれはもはや現行版だけで『歴史哲学』を語ることができなくなった。新しい資料は初年度の講義が間もなく刊行の予定であるが、それ以外の年度はまだ刊行予告すら出ていない。原資料を解読する以外に今のところ手がない。


4 「美学」の初年度講義録、刊行される

 「美学」講義については『情況』三月号の「ヘーゲルの語り口に迫る画期的な翻訳--長谷川宏訳『ヘーゲル美学講義』の翻訳革命と資料上の革命」で、美学の構想も大きく変化したこと、ホトー版(≒ズールカンプ版)には数限りない改竄がありテクストの資格を欠くものであることを指摘したので、それをご覧頂きたい。美学研究はこの極めていかがわしいテクストによって一五〇年間にわたって歪められてきた。皮肉にも、これまでの歪められた研究の意味を振り返る上で「ホトー版はヘーゲルが実際に講述したことの改竄であるが故にこそ、失われることのない価値をもっている」(ペゲラー)。
 昨年、ベルリンにおける初の「美学」講義(一八二〇/二一年)が刊行された(G.W.F.Hegel, Vorlesungen uber Asthetik. Berlin 1820/21. Hrsg. von H. Schneider. Peter Lang. 1995)。これを見ると、美学講義が、総論と各論との二部構成から出発したことが分かる(この初期の構想はホトー版ではなく、ラッソン版によって伝えられてきた)。総論は「美の概念」と、「そのさまざまな形態」(象徴的、古典的、ロマン的な各芸術形式)に分かれ、各論では芸術の「主要なジャンル」(建築、彫刻、絵画、音楽、文芸)が論じられた。ハイデルベルク時代の同僚クロイツァーの『古代の諸民族の象徴と神話』第二版の影響のもとに、「象徴的芸術形式」の概念が確立し、芸術史の三段階が成立した。
 また、ハイデルベルクの『エンツュクロペディー』では「芸術宗教」として一体化していたものが、芸術と宗教とに分離され、「芸術の終焉から宗教へ」という考えが打ち出された。
「アリストパネスの喜劇をもって彫塑的な形態化が終わり、われわれは芸術という様式がもはや神的なもの〔をとらえる〕最高の様式でないことを知ります。神的なものについての精神的な知は宗教のなかにあります。これをもってわれわれは芸術の領域を考察し終えて、宗教へと進みます。芸術は神的なものの必然的な描写表現ですが、それはまた過ぎ去っていかなければならない一段階でもあります。(了)」(S.331) 。
 アリストパネスの喜劇をもって芸術が終わり本来の精神的な宗教へ向かうというフィナーレは、一方で『精神現象学』の「宗教」章を髣髴とさせる。他方で、晩年に先鋭化される「芸術の終焉」論の始まりでもある。イェーナ期から体系期への思想的発展を示す貴重な資料と言える。一八二〇年五月五日付ベルリン大学総長宛て書簡のなかで、ヘーゲルは宗教哲学をまだ独立した講義科目としてあげていなかった。宗教哲学は美学と結びつけられていた。ところが、翌春「宗教哲学」が初めて開講される。この決断の背景にはシュライアーマッハーの『信仰論』の刊行計画があった(『神と国家』一二四)。だが、これは外的な事情である。宗教哲学が独立して講じられる思想的な根拠はこの前学期の美学講義が示しているように思う。
 この筆記録の思想的な意義はベルリン時代の美学講義の全貌が明らかにならないとはっきりしたことは言えない。だが、これは失われたヘーゲル自筆のいわゆる「ベルリン・ノート」の基本要素を再現する手がかりになると思われる。ベルリンでのこの最初の講義で、ハイデルベルク時代の講義ノートがすでに使い物にならず、ヘーゲルは新たにノートを作り直し、それがその後のすべての講義の基礎になったという(ホトー編者序)。おそらくこのノートの上で美学の根本構想が練られた。それがこの筆記録から読み取れるかも知れない。


5 「宗教哲学」一八二七年講義録の再発見

 宗教哲学については、『神と国家』第三章で講義内容の発展を、補論一でテクストと資料状況をそれぞれ考察したので、繰り返しを避けて、ごく最近の資料状況についてだけ述べたい。
 昨年イェシュケ氏から届いた手紙によれば、ケーニッヒスベルクの図書館で発見され当時ラッソンが編集に用いた一八二七年講義の資料が再発見されたとのことである。氏が新版編集でもっとも苦労したのが一八二七年の講義であった。この学期の講義録はラッソンが編集したあと散逸してしまったと思われていた。やむなく氏はラッソン版から講義の原形を再構成するという困難な道をとらざるをえなかった(『神と国家』二七六)。ところが、戦火のなかで散逸したと思われていた資料がなんと最近ポーランドで再発見されたという。それについて氏の手紙は「幾つかの箇所を抽出して検討してみたところ、私の編集が正しかったことを確信しました。いつか大全集版のなかで「宗教哲学」講義の新しい編集がなされるようになったら、私の版とこの再発見資料とを詳細に比較検討しなければならなくなるでしょう」と書いている。
 なお、筆者はいま後期の講義を中心として『宗教哲学講義』の新版の翻訳を準備中である(創文社より刊行予定)。


6 各講義の相互連関の解明

 それぞれの領域の講義の発展史が解明されたら、次には各講義の相互連関が解明されなければならない。「世界史の哲学」「美学」「宗教哲学」「哲学史」の各講義内容は互いに密接に関係し合っている。例えば「宗教哲学」の第二部でヘーゲルはキリスト教以外の異文化宗教の研究にのめり込んでいき、アジア、アフリカなどの風習を伝える旅行記や報告書などを猛烈に読みあさった(この主な情報源は『神と国家』の付録2に掲げた)。この読書は「宗教哲学」だけではなく、「世界史の哲学」「美学」「哲学史」などにも利用された。或る講義で深められた内容が他の講義に反映し、あるいはその逆であったりということがある。すでに述べたように、本来は「法(権利)哲学」講義でなされるべきことが「宗教哲学」や「世界史の哲学」で展開されたこともある。後期発展史研究はこのような各講義の発展の相互連関的な発展史へと進まなければならない。
 


7 『エンツュクロペディー』の二度にわたる改訂の意味

 ヘーゲルの体系はなんと言っても『エンツュクロペディー』によって示される。これが一八二七年と一八三〇年に二回改訂された。とくに、第二版の改訂は大幅なものであった。しかし、この改訂が全体としてどのような意味をもっていたのかはほとんど研究されていない。これについても厳密な校訂版が大全集版の第19巻(1989)、第20巻(1992)としてすでに刊行されている。これらに基づいて改訂箇所を全面的に洗い出し、ヘーゲルの体系思想がどう発展したのか、そこにどのような意味があったのかが明らかにされなければならない。


8 ベルリン時代の批評活動との関係

 ヘーゲルはベルリン時代に多くの批評文を書いている。『ベルリン批判年報』をみずから創設し、時代のアクチュアルなテーマについても論陣を張った。これは著作と講義に並ぶもう一つの活動形態である。この評論活動を調べれば、当時の論争状況が分かるであろう。著作と講義のなかで述べられた思想の意味が、その時代背景と動機づけの面からも明らかになるであろう。海老沢善一氏によるすぐれた訳業『ヘーゲル批評集』(梓出版社)ですでに幾つかが翻訳されているが、未邦訳のものも含めて、批評文の研究、さらには著作および講義の内容とそれらとの連関についての研究が必要である。


9 おわりに

 このように今われわれの前には山のような課題とテーマが横たわっている。われわれの研究がこれらの課題に応えるならば、その成果が与える影響はかつての前期(青年期とイェーナ期)発展史研究を凌ぐものになるだろう。前期発展史研究は既成のヘーゲル像に対して、それ以前の「知られざる若きヘーゲル」を対置したところに、新鮮な意味があった。ところが、既成のヘーゲル像は主に体系期の講義や著作をもとに作られたものであり、これが手つかずのまま残された。これを脱構築しヘーゲル像を刷新する仕事は後期発展史研究によってのみ可能なのである。このスリリングで魅力あふれた新分野の研究が多くの研究者の参加によって飛躍的に発展することを願ってやまない。


(注)講義録の研究には、Hegel-Studien. Bd.26. 1992. が必読文献である。とくにO.Poeggeler, Nachschriften von Hegels Vorlesungen.が今後の研究の課題と方向性を示しており、本稿で多くを参考にした。山口誠一氏の「ベルリン期未公刊講義筆記録管見--ベルリン版全集の呪縛からの解放」(本誌創刊号)は資料状況を一目で概観できてありがたい。
 ヘーゲルがベルリン大学で行った講義の一覧はSaemtliche Werke. Bd. 11. Hrsg.von Hoffmeister. S.743ff. に詳しい。日本語で簡単に見たい場合はK・フィッシャー『ヘーゲルの生涯』玉井・磯江訳、勁草書房、一八九頁以下。講義予告はBriefe von und an Hegel. Bd.IV/1.S.114ff. 参照。
 ベルリンのプロイセン文化財図書館所蔵のヘーゲルの遺稿および講義録のカタログが昨年ツィーシェ女史の編集によって刊行された。資料状況を知り、資料を請求する上で役立つ。Der handschriftliche Nachlass G. W. F. Hegels und die Hegel-Bestaende der Staatsbibliothek zu Berlin Preussischer Kulturbesitz. Teil 1. Katalog. beschrieben von Eva Ziesche. Harrassowitz Verlag. 1995.