遺伝データの取り扱いについて

――ドイツ連邦議会「現代医療の法と倫理」審議会最終報告書における評価と提言――

 

      松田 純

 

キーワード

遺伝子決定論  genetischer Determinismus

遺伝子検査遺伝子診断 genetischer Test, genetische Diagnostik

遺伝子差別  genetische Diskriminierung

遺伝子診断法  Gendiagnostik-Gesetz

遺伝情報遺伝子データ genetische Daten

逆選択  Antiselektion

社会の遺伝子化  Genetifizierung der Gesellschaft

職場医療労働医学Arbeitsmedizin

知らないでいる権利 Recht auf Nichtwissen

保険  Versicherung

優生学的差別  eugenische Diskriminierung

予診的検査 prädiktiver Test

リスク査定  Risikoprüfung

 

1.はじめに

 ここでは「C テーマ別各論 2遺伝データ」のなかの、とくに遺伝子検査と職場医療、遺伝子検査と保険、包括的な遺伝子診断法制定の提言に関する節を訳出した。訳出しなかった部分も含め、以下に遺伝子データの扱いについての報告書の基本的立場をまとめてみる。

 

2.遺伝子検査の特徴

 

報告書は遺伝子検査の結果(遺伝情報)には通常の健康診断結果に対して、以下のような特徴があると指摘している。

1)際立って高い予診的能力を孕んでいる。

2)病気や病気になる体質について発症前の言明を可能にする。

3)長い期間にわたって予言力を保持する。

4)子を産む産まないについての決断に重大な影響を及ぼす(出生前遺伝子診断)。

5)民族性と結びついて、排外主義的差別の潜在力を孕む。

6)検査された当人を越えて家族に対しても含みをもつ。

7)発症に関する予測はたいていまだ不確実である。

8)就職、保険加入、伴侶を得る際に、遺伝病またはキャリアという社会的烙印を押す一つの口実を与える。

9)キャリアに対してかなりの心理的不安を与え、恐れと抑鬱に陥らせる。健康な人までが自分を病気または病気の危険ありと見なしかねない。

10)優生学的差別の潜在力を孕む〔リベラルな新優生学〕。

 

遺伝データの発言力が過大に評価されることがしばしば生じる。このことが多くの要因の連関を総合的に認識する上で或る歪みを引き起こす。遺伝子情報を優勢なものと考え過ぎて、連関全体のなかでほかの多くの重要な側面の影が薄くなるからだ。人間と人間の病気の複雑さ(複合性)が単純な遺伝子の基質(塩基の配列)に還元されてしまう。病気の成立や人の性格や特質に影響する社会的環境要因などが後景に退く。報告書はこれらの傾向から「遺伝子決定論」[1]が蔓延し、「社会の遺伝子化」が生じる恐れがあると警告する。

 さらに、「社会の遺伝子化」が次のような社会的プレッシャーとして現れると懸念している。すなわち、予診的検査は、いまはまだ健康な人々が「将来確実に病気になる」とか「たぶんなるだろう」といった言明を提供する。このような知識によって、「健康な病人」という新しい人間の分類が成立する。予診的検査が責任を個人化して社会的な相互扶助(福祉)システムを崩壊へ導きかねない。「遺伝子的にハンディを負った」人は暮らしぶりを自分の遺伝子の構成に合わせて、自分の能力(自分で自分のことをやれる状態)をできるだけ長く維持し、共同社会にできるだけ負担をかけないようにし、できることなら同じ遺伝子的ハンディをもった子供を持たないよう配慮する。このような期待が世の中に蔓延する可能性がある。現在でも自分自身の健康に常日頃から気遣い、大病して医療保険に余計な負担をかけないようにするのが、市民の務めと考えられている。これがさらに進んで、「予診的検査を実行し、遺伝データを公開し、あるいはスクリーニング計画に参加せよ」という社会的な圧力が生じて、こうしたことが「社会的に責任ある行為」とされるかもしれない。このような社会的なプレッシャーは、形の上では「あくまでも自発性(自由意思)に基づく」とされて生じることもありうる。

報告書はこのような懸念を述べたあとで、こう強調している。遺伝データは個人のアイデンティティに関わるとりわけデリケートなデータである。それだけに、それにふさわしい高い基準の保護が必要である。

 

3.遺伝子検査と職場医療

職場での遺伝子的所見の利用は次のようにアンビヴァレント(両価的)であると報告書は評価する。すなわち、一方で、労働者への遺伝子検査の導入には、早めの予防や職場における健康保持のための改善策につながるという希望と結びつく。他方で、こうした方法が選別目的に誤用され、職場環境を改善する努力が空洞化する恐れがある。

  検査結果は例えば次のような情報を開示することがありうる。

(1) 病気のために休職する確率の高い、個人の遺伝子的特性や素因

(2) 仕事の上での失敗や第三者にリスクを及ぼしかねない遺伝子上の徴候。

(3) 労働に用いる有毒な素材または健康に有害な素材に対する個人の抵抗力、または職場に特有な環境に対する個人の抵抗力のなさ。

  職場における遺伝子検査は、他の検査方法と同様、基本的には労働者の動機に基づき、労働者の保護と利益〔例えば、特殊な素材に対するアレルギーを前もってチェックする〕のためか、または事業者の動機に基づき、第三者の保護〔例えば乗客の安全〕というような営業上の関心において導入されることがありうる。

報告書は述べている。総じて顧慮すべきことは、遺伝子検査の導入が職場医療分野にある種の遺伝子決定論――ある人の遺伝子情報からその人の能力を推し量ったり、他の人々への危険度を推し量ったりするような遺伝子決定論――を導くことがあってはならない。全体としての人間は遺伝子以上のものなのだから、と。障害を持つ労働者は個別具体的に評価されなければならない。このことは例えば癲癇のようないわゆる危険性のある障害と病気にさえも言える。報告書は この点でアメリカの障害者法(ADA: Americans with Disabilities Actが一つの方向を指し示しているとして、この法律の注釈を引用する。

 

事業者は、ある人物が職場において本人自身の健康と安全に直接的な危険がないこと、または職場における他の人々に直接的な危険がないことを示すよう求めることができる。しかしながら事業者はアメリカの障害者法に従って、直接的な危険があることを確認できるためには、非常に特殊で厳密な要件(、、、、、、、、、、、)を満たさなければならない。“直接的な危険”という概念は、その個人や他の人々の健康と安全をかなり害する顕著なリスク、調整的な措置では取り除くことも減らすこともできないリスクを指す。……将来おこりうるかもしれない不適性の可能性だけでは、その個人が危険性を示していると決定する理由になりえない。……安易に誇張されたリスクやまったく推量的で極めて疑わしいリスクを理由にして、ある障害者に職を与えないというのは許されない。……ある人が癲癇症ではあるが発作の可能性がなかったり、あるいは発作が迫って来るのを早めに感じ取れることを医学的診断が示しているならば、この人を、本人と他の人々にとって危険であるかもしれないという危惧と推量から、ある機械を扱う職場から遠ざけることは不当である」。

 

 第三者を保護するための遺伝子検査

第三者を保護するために労働者に対して行う遺伝子検査の導入についても議論されている。例えば飛行機のパイロットが神経系や循環系の発作を引き起こす病気をもっている場合、突然業務不履行が生じ、そこから第三者にかなりの危険が発生しうるような病気が突発するのを予測することが予診的遺伝子検査によって可能だと言われる。しかし遺伝子検査は技術的な理由からいまのところ、そのような病気の発症時期と重症度に関して十分な確実さで予測することはできない、と報告書は指摘している。

 

4.遺伝子検査と保険制度

 

遺伝子検査とリスク査定

世界的に見て、遺伝子検査ははいまのところ保険部門において、あえて言及するほどの役割を果していない。保険数理上関心を引くような、国民に広く見られる多因子性の病気に関しては、信頼に足る遺伝子診断方法がまだない。英国の「ヒト遺伝学審議会」(HGAC)も1997年に似たような結論に達した。「このような期待は非現実的であり、過剰な期待だ。見通せる範囲の将来において、遺伝子検査は保険目的にとっては現状ではわずかな予見力しかもたない」。

報告書は、保険分野に遺伝子検査が近い将来に幅広く導入されて大きな役割を果たすかどうかは、現時点では見極めがたいが、次のような事情がこの導入を促す可能性があると予想する。自宅で簡単に遺伝子を調べることができるホーム・テスト・キットを個人が薬局などで手軽に購入できるようになったら、どうであろうか。ひそかに自己検査し、その検査からリスクを知った人が将来の生活防衛のために保険に加入するような状況(「逆選択」)が広まると、保険会社はこれに対抗して、保険申込人と保険会社との間の「遺伝子情報のアンバランス」を是正しようとするだろう。この二つの傾向が互いに強め合って保険業界への遺伝子検査の幅広い導入を促進することが起こりうる。また多因子遺伝病を調べる検査技術の精度が向上していったら、保険会社がリスクを見積もった事前算定や効率的なリスク選択に遺伝子検査を利用するようになるかも知れない。

 保険組合は競争のなかで有利な位置に立つために、被保険者の既往症データを利用し罹患リスクを可能なかぎり精確に描こうとするだろう。こうした連関のなかで、遺伝子診断の助けによるリスク査定が保険制度にとっても重要になってくる可能性がある。それゆえ遺伝データが個人的な形式で呈示されたり確認されたり利用されたりしないような保障が必要である、と報告書は指摘している。

  保険契約前に遺伝子検査を義務づけられると、保険申込人は知りたくもない自分の遺伝的体質について知ることになるか、それとも保険による防衛を諦めるかの選択の前に立たされる。保険申込人の「知らないでいる権利」と十分に情報を得た上で自己決定する権利が侵害されるという問題が生じる。

保険分野における遺伝子検査の適用について外国での法的規則化はさまざまであるが、次のような傾向があると報告書は指摘している。すなわち、遺伝子診断の助けによるリスク選別の可能性は、保険制度が競争的環境で組織されている国よりも、責任ある者同士の連帯・相互扶助が重視される社会の方が需要が少ない。例えば、デンマーク、フランス、オーストリアでは保険分野における遺伝子検査結果の利用が法によって禁じられている。

 

規則化の選択肢

 保険分野への遺伝子検査導入の規制に関して、報告書は三つの選択肢を提示する。

1)(容認):保険者が保険申込人に対して契約締結前に遺伝子検査の実施を要求し、またそのような検査をみずから実施することを可能にする。

2)(禁止):保険者が契約締結前に遺伝子検査を要求することを禁じるだけではなく、保険申込人が他で受けた検査の結果を保険者に知らせることも禁止する。

3)(中間):遺伝子検査から得られる遺伝情報を、保険者および保険申込人が限定的に利用することをあらかじめ見込んでおく。

3)は事情によっては、保険金総額に応じてリスク選択のための遺伝子検査の導入が許されたり、あるいは遺伝子検査の結果に基づいて保険金を区別するという方法も考えられる。保険者が契約前に保険申込人に遺伝子検査を求めることを禁じた上で、契約前の告知義務を基本的に堅持する方法もある。保険者は契約前の告知義務の枠内で、他で受けた遺伝子検査の結果をはっきりと尋ねる。例えば「あなた(被保険者)は過去5年間に遺伝子検査を受けたり、あるいは自分で検査を行ったりし、その際にすでに病気になっていることが確認されたこと、もしくは近い将来確実に発病か早世に至るような遺伝子的体質が確認されたことがありますか?」という質問を告知書に入れる。

 

また、報告書は保険を

(1)公的保険(保険契約が法の力によって、個人のリスクの査定なしに成立する。社会的公平を確保するために、基本的な生活上のリスクに対する防衛に役立つ)と

(2) 私的保険(保険契約が法的強制なしに成立し、個別の契約に根拠をもつ。リスク相関的な保険であり、保険料などはリスクの査定による)

の二種類に分けて、遺伝子検査の問題に対応する方法を検討に値するとしている。具体的には相互扶助原理によって組織された新しい統一的な公的保険を導入するという選択である。保険による統一的な保護はリスク査定によらず、したがって被保険者の遺伝子的状況にも依存せずに保障される保険。そのような基盤的な保険の上に、追加的な私的保険が考えられ、その利得のために、他で受けた遺伝子検査の結果の開示も許されうる。だが、そのような二段階的保険制度に対しては、それは遺伝子差別の問題を排除せず、ただ魅力のある追加的保険に問題を矮小化するだけだという反論があることも付記している。

 

5.遺伝子診断法制定を提言

 この他、今回訳出できなかったが、多数の人の遺伝データを利用してなされる疫学研究や「ゲノム創薬」研究における遺伝子データの取り扱いについても詳しく検討されている。これらをふまえて、報告書は連邦議会に対して、遺伝子診断法の制定を提言している(「包括的な遺伝子診断法制定の提言」参照)。

 



[1] 3連の塩基(コドン)が1種類のアミノ酸を指定するという意味では「遺伝子が決定している」。ここで言う「遺伝子決定論」とは、ある個人の心身の能力や性質のほとんどが、あるいは人生における成否までもが、あたかも遺伝子によって決まってしまうかのように考える傾向のこと。